准胝独部法をしたいので講員になりたいという要請があった。
熱心なことと思う。
そもそも密教は如来秘密の教え
弘法様も伝教様も命をかけて仏法を持って帰った。
かって信貴山玉蔵院の野澤大僧正が中国に行かれて。西域の彼方を見つめ。この彼方から玄奘三蔵から命がけでもたらされたのが大乗仏教。
「それを想えば心経一巻たりともおろそかにはあげられない。」とお教えになり、私にはラクダに乗って砂漠を行く旅人の絵をお土産にくださった。
顕教はともかく密教は衆生利益に重きを置くのもの。
衆生を利益することを考えてこその密教。
自利のみで「衆生利益することを考えないものに密教は必要はない」というのが私の考え。
極端な話、金持ちになりたいから修行して聖天供をやりたいなどと言う考えは支持しない。
興味があって自分がやりたいだけなら、自力で頑張って高野山や比叡山に行ってやればいい。
又、衆生利益したくとも器のない人も対象外だ。向き不向きは厳然としてある。
拙寺はそんな道楽や無駄骨にかかわっている余裕は一切ない。
ただでさえ微力であるのに。
「趣味の密教」など教えてはいない。お遊びには付き合わない。
まっぴらごめんだ。
だから人を見際めて授けてきたつもりだがそれでも過去には失敗もあった。
ひとえに自身の不徳と人を見る目の甘さゆえだ。
人はどうあれ今更責めない、自分の不甲斐なさこそ責めたい
だからさらに、より厳しく一切の妥協を排さなくてはならないと思う。
何度も頼めばしぶしぶ許すようなものなら最初から許せばいいのだと思う。
一度断ったことは何度頼もうが断わるからこそ整合性がとれるのだ。
ことに「法」においてはそういう情にほだされるのは仏教者の「恥」以外のなにものでもないと自戒している。
私は説得はされないことを大事にしている。
NOはどこまでもNO、百回でも千回でも言ってくるがいい。すべて答えはNoだ。
自行でやりたい人も結構。
だが加行などいらない、護摩も必要ない。
自行なら准胝独部法で必要十分だ。
これはそのための法なのだ。
それを考えれば准胝独部法の価値は極めて大きい。
独部法終ったら何をやる?
基本的に終わりはない。くりかえすだけ。
十万遍というのは目安にすぎない。
そこまでもやらないならやったうちにも入らない。