私は基本的に他人様の霊感もお告げも採用はしない。
「ああ、・・・そうですか」と聞き流すだけ。
気分を害してはよくないので、あえて否定もしないが、思い当たることが無ければそれをもとにして行動するなど一切考えない。
なぜなら私には「感応道交」の世界があるからだ。
「感応道交」は霊感現象と言えなくもないが霊「能力」ではない。
信仰の延長線上にある世界だ。
密教修法をくりかしてその世界に入れば霊能力などなくても誰でも起こりうる世界だ。
無論、百回、千回と繰り返し修練して初めてつながる世界だ。
自分が祈祷するうえでの拠り所でもある。
それこそが祈祷の上でも全てだ。
いっておくが霊能ではないから自分で知りたいことがわかるのではない。
必要なことが感じられるだけだ。知らせられると言ってもよい。
それ以外は皆目わからない。だから見方を変えれば自分の能力ではない。与えられた情報だ。
だが感じないことは逆にあえて知る必要もないと考える。
密教の肝である「加持」というのも同じこと。
古来、「仏日の影は心の水面に映る」と表現されている。
それを措いて何が悲しくて他人様の霊感などに頼ろうか?
だから私宛にこんなお告げが…などと言うのはみな馬耳東風だ。
心底を言えば「あんたなんぞに何がわかる?」と思っている。
私という人間をわかっていない人は縷々、そんお告げ話を次々と言ってくる。
そんな他人へのお告げを頂けるなら、まず自分の問題をそれで何とかしたらどうよ?
まあ「感応道交」ということを知らないからだろうね。
およそ感応道交を知らねばいかに事相、教相に詳しくとも密教行者とは言えない。
だから霊感に憧れてひたすら欲しがる行者など、いまだ修法の醍醐味を知らない未熟な行者だと思っている。ハッキリ言って修行が足らぬ。
・・・世の中には案外そういう人もいるからあえて口にはしないけどね。
でもはそれを繰り返す言えば私が認めてくれると思っている人もいるようだ。
真逆だね。
「霊感で神仏がこう言っているんです!」などと臆面なく言い放つものは極めて無責任な行為だ。
ホンモノの霊感者は謙虚でなくてはダメだ。
言い放つだけならただの戯言だ。
霊感なんかなくてもまともな勘働きがあるならそれくらいわかるだろうにといつも思う。
それで行から外した人もいる。モノ申すなら行を通して申さねばならぬ。
すぐに霊感でどうこうという人に表面上「そういうことを言うな。」とまではこちらから否定はしない。
それはその人の勝手だからだ。
だが、危険な存在としてやんわりと遠ざけることにしている。