ある方のご病気を祈願している行者さん、
難病の治療を頼まれているというので相談を受け金剛夜叉明王法をお授けした。
経験的にはこれがすごく有難い法と思う。
で、その方が金剛夜叉法を拝みだしたら、真言が相手に行かずに自分に来てしまう。
実は行者さん本人もちょっと病気があるんですね。
だから先にこちらにとられます。必要なんですね。
人の御祈願でもその功徳は7,8割は自分に残る。
だからよほど拝まないと先様に届かない。
特に自分も同じ問題があればまずそこに行く。
人を優先してもよほどでないとそうなる。
「まあ、もっと拝んでみるほかないですね」と言っておいた。
自分のはこの辺でいいかというのはこういう方は感じられるはずだから。
これは真言が自分であつかえる祈祷のツールではなく、やはり仏の慈悲から頂いたものであるということです。
技術、技法ではない。そこに仏の誓願がある。