最近の面談で、不正を許せない人の話。
わずかな不正でも許せない。駅の登り階段を下るとかでも許せない。
わざと避けないのでぶつかりケンカになったそうだ。
「あんたは事あるごとに不正を見つけて対決しようとしているのでは?」とたずねたらそうだという。
そういう不正を許せぬこと自体はOKかもしれない。
ようはありかただ。
「登りじゃないですよ。あぶないですよ。」というだけでもいいと思う。
こういうことは実は幼少期の学びなのだ。
御父上がやはり同じように曲がったことや不正が大嫌いな方でよくトラブルになって血を流しながら帰ることもあったそうだ。
ストレートで厳格な方だった方のだろう。
多分この方も不正に厳しい教育を受けたころだろう。
厳しいしつけに耐えかけねてひどい!とか思うこともあったかもしれない。
でも無垢な子供の心はそれを否定しこう思うかもしれません。
そういう父の在り方を肯定し尊敬するためには・・・そんな父上を肯定するためにはどうする?自分も同じようなありかたを通していく必要がある。
そしてそれを自分の人生で証明していこうとする。
だから何度でも繰り返す。
終わりはない。
そうなるとそれはやまないね。
天と阿修羅の永遠の戦いもそうだ。
阿修羅は自分の在り方を通そうとして戦いを止めない。
阿修羅は帝釈天に勝てない。
帝釈天のすさまじい雷撃を受けて木っ端みじんになり、海に落ちていくが何度でもそこでまた再生して何度でも戦いを挑む。
その無意味さに気が付かないから永遠に阿修羅は戦うのだ。
たとえ体を割切されて何度おびただしい血を流しても。
興福寺の阿修羅像は少年のような無垢な面差しだ。
彼は純粋であるが成長していないのだ。だからいつも、怒りと戸惑いに覆われ永遠に眉を顰める少年の顔をしている。
阿修羅は悪神ではないが、この一点で知的ではない。愚痴である。
痴は最も大きな害を及ぼす。それは貪りや瞋り以上だ。
作者は阿修羅のこころを知った人なのだと思う。