「四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。」
自尊心と競争の世界、自分が人に負けるのが耐えられない。
大したものでもないのに人より上にいて偉そうに人を下し見ることを好む。
上から目線で来る。
だがその人の内実は見た目にはワシやタカのようにみえて実際はありふれたトンビのようなものだ。
タカでもワシでも鳳凰でもない。
その心は高慢であり根拠のないプライドに支配されており、まことに善良で居られるのは自分が優位に立っているという余裕からである。
もしそれが傷つけられ、脅かされればたちまち凶暴な阿修羅の本性をあらわす。
そして自尊心を傷つける者には容赦ない。どんな仕打ちもする。
大海の底に壮大な大宮殿を構える阿修羅は頭の上を日月が遊往するのが気に入らない。
自分の頭の上を行く無礼者め!となる。
阿修羅の像は手に日月をもっています。それはそういうこと。
日月を捕まえている。
それは大変なことになったと思った三十三天の神々の王、帝釈天は四天王以下の七十二将や星宿、あまたの天の軍勢を率いて、阿修羅と戦います。
このインド神話由来の天と阿修羅の勇壮な戦いは仏典では「正法念処経」に出てきます。
いくら阿修羅が強くても帝釈天にはなかなか勝てない。
帝釈天の得意の武器である雷霆で体をズタズタ引き裂かれ海に沈む阿修羅たち。
でも彼らは不死身です。再生して何度でも戦いを挑む。
阿修羅は基本的に自分は正しいと思っている。
だから彼のしているのは正義の戦争なんですね。
いわゆる聖戦という奴だ。仁義礼智信を揚げて人はかくあらねばなどともいう。
だがこうした阿修羅のこころに勝てる心。
それは慈悲であり思いやりの心です。
ある日、阿修羅軍の方が優勢で帝釈天は敗走したという。
戦車を走らせるその先に金翅鳥の巣がありヒナがいた。
「これをひいてはいけない!」と思った帝釈天はそのために引き返して、その勢いで逆に阿修羅軍を敗退させたといいます。
阿修羅の心はイスラム教の過激派と同じ。彼らは自分たちは神のが側に立つ存在。
神の側だから絶対正しいと思っている。そこに不正義はありえない。
だから戦いは永遠に止まない。
アメリカだって正義の国ではない。でも彼らには彼らの理がある。そこも修羅の心。
でも過激派のアイエスやタリバーンはアメリカ軍の強力な武器でどんなにやられても復活する。阿修羅と同じ。
現代はあらゆる意味で阿修羅の時代、「正しい」ということで争いが絶えない。
中東や各地の紛争のそうだが、毎日、ネットでああだ。こうだと自分流の「正しい」を主張して批判しあう。ついにはその枠を超えて誹謗中傷も飛び交う。
自分の意見が入れられないだけでも、満座で自分自身が汚物でもぶつけられたように怒りが爆発する。そういう怒り常にふつふつとしているから誰かが転べばここぞと袋叩きにする。
戦いが止まない。
海中に壮大な宮殿を構えても阿修羅とはそういうものです。
経済が発達し教育、文化、医療が整っても阿修羅の心では世の中平和にならない。
今、超大国中心に先端技術のバイオテクノロジーや人工知能の技術が兵器としておおきく嘱望されている。
いくら科学や文明が進もうとこころが阿修羅なら世の中に平和はない。