阿修羅はもともと神々の敵ですが六道の中では天・人間と並び「天台四教義」では三善道に入っています。地獄・餓鬼・畜生とはならばない。
善なのです。
境涯は人間は人間より下で四六時中神々と戦いにかけくれていますが善なのです。
なぜでしょう。
それは阿修羅の怒りにある。
阿修羅王の娘が帝釈天につれられて須弥山の大善見城に行ってしまった。
おのれ帝釈天メ、わが娘をたぶらかしたな!と言う怒りや、日月がわが頭の上を通過するからひっとらえてくれると言う怒り。
阿修羅は海底深く、帝釈天の大善見城に勝るとも劣らぬ城を構えている。
それだけ力があるが、須弥山に住まう神々からは所詮は鬼類の類とさげすまれているんでしょう。
いわば欲得で戦するのでなく、かれらなりの義で戦する。そういう境涯。
でも基本的に帝釈天は強く、味方も多い。それで分が悪い。
護世の四天王やその部下の神将たち、日月天子、摩利支天や弁才天と言う戦いの神様も参戦してくる。
摩利支天なんか目の前にいるけど阿修羅には絶対に捕まらない。陽炎の神様ですから。
それで戦いのたびに負けては天界の武器でバランバランに切断されて海に落ちていっては再生する。それで再生したらまた戦うくりかえし。
愚かで恐ろしいことですが人間も似たこと地域によってはズットしています。
救いようのない阿修羅ですが、これがあえて三善道なのはなぜ?
そこにはまだ彼らなりの義があるからです。
義とは人の在り方。道筋です。
いわば正しい道を模索する善なる心がある。
だから境涯はよろしくないが性としては善なのです。
だけど善の在り方に問題があるんですね。
善なのですが妥協ができない。そのために血を流す思いをするが改めない。
人間でもいますね。そういう人。許せん!と言うその思いだけでもっと血を流す。
流せば流すほど「許せん!」ということになる。
でも仏教ではそういう人は根っからのダメ人間ではない。強い義があるので、許すという徳さえ身につければぐんとよくなる。
許せない人に共通なのは自分を顧みることが少ない。
立派な行いもする人ですがすぐにどっちが悪いという比較論になる。
そうした比較論が人間のいざこざを解決することはない。
もっと大事なことは愚かな争いをしないで済む道を模索することでしょう。