大和の長谷寺、本尊十一面観音は地蔵の姿を併せ持つ。
地蔵の持つ錫杖を右手にして蓮華に乗らず岩座に立ち給う。

白水山平等寺の地蔵と大御輪寺の十一面尊はともに大神神社の本地仏。
その地蔵と十一面の合体尊である。向かって左の雨宝童子、天照大神が16歳の時、日向にご下向きの折のお姿という。
右は難陀竜王、雷神である武御雷大神すなわち春日明神になぞらえる。
雨宝童子は皇室を表す、春日明神は政治の実権を皇室からゆだねられた貴族政治の中枢・藤原氏一門を現す。
後にアマテラスに春日明神に加えて、武門の棟梁である源氏の氏神、八幡大菩薩をして三社信仰とするが、長谷観音の建立時代にはまだ武家の台頭はない。

この三輪大神を中心に仏教の神道は展開する。真言宗のとなえた御流神道であり、三輪流神道である。
三輪大神は国つ神である大物主命を祀る。
天台宗も山王大宮権現として同じ三輪の神を祀っている。
山王神道の山王とは三輪大神に他ならない。
つまるところ、国つ神が中心なのだ。
皇室の祖神アマテラスさえ脇に置く「初瀬の観音」とはなににものだろうか。
国譲り神話で負けた大物主の一族。子供のコトシロヌシは海で死に、タケミナカタは諏訪の湖水にに封じ込まれた。
それなのにここでは逆に勝者であるアマテラスと武御雷が脇に置かれる。
これは実はすごい事なのだ。
この三輪明神は日本の政治の主流であった皇室や藤原氏ではなく、国つ神系・日本の土着の人の魂を祀った神である。
初瀬の観音は思うにいわば先住民の鎮魂のほとけである。荒ぶる魂を鎮めるものは仏でなくてはならない。しかも修羅道の観音である十一面観音こそである。
だとすればそれを本当の意味でまつれるのは仏教だけだろう。
神道に対して仏教の神道は国つ神の神道であり鎮魂の神道だと言うべきではるまいか。
蓮華座に乗らない岩座の観音は実はこの大地に足をつけた神であると言っているのだ。