金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

料理も修行!

やり直し十八道の内弟子。40座目前でまたまた獣肉の入ったものをうっかり食べたのでまたも全部やり直し。全部チャラ。

私が毎度調理しているときはそういうことはないのだが、昨日は水歓喜天法で忙しかったので料理を任せたらすぐにこのザマ。

アホやね。(笑)

実は当人はこの日の朝がまちがってお肉食べる夢みたそうです。

こういうのは聖天様にからかわれているんだね。

聖天様は長い付き合いだからわかる。

その人の弱いところをとことん広げて陶冶する。聖天様ならではのやり方だ。

嫌というほど何回でも谷底に放り込まれる。

それが聖天さまの恐ろしさ。

 

やり直しはきついけど、追放よりいいでしょう。

もっとも、どこまでも何度でもやり直しという訳にもいかないけどね・・・

また同じことになったらそろそろ首も洗っておいて欲しい。

 

今度から自分で調理をしてもらう。最初やらせたらあまりに不味い。栄養バランスも超悪い。たべられたものでなかったので任せなかったのもあるが、日頃、自分でやれば使える食材がよくわかるだろう。 

第一師匠が料理して弟子に運んでいる寺などありえないしね。

まあ、禅宗の典座教訓では料理は老僧の修行だけど・・・

ここは料理も修行だ。

すぐに撤回するなら言わなけりゃいい

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最近は何か言われりゃすぐに撤回や反省。

それを理解した上ならいいだろうが、ようするに怖いだけに思える。

そこのところは主張はともかくこの人の在り方はある意味うなずける。

自分の意見は自分の意見だ。

簡単に引っ込めるなかれといいたい。

気に入らないなら衆を頼んで口々に罵り黙らせる。

これは民主主義では決してない。

一種のマイノリティーへの弾圧だ。

 

会議の技法でブレインストームというのがある。反論を言わずそのまま皆が意見を出し合う。発言力のある陰のリーダーを抑える。

発言力とことの是非は別だからだ。

無論、結果的に賛否はあるが討論はない。

そういうありかたがおとなだと思う。

霊能?が修行の道を閉ざした人たち

えてして人がわからない存在が見える 聞こえる があれば。自分には行者になる才能があると思い込む人は多い。

実に困ったものだ。

実際、わが門下では霊の声が聞こえるの、神仏の声が聞こえるのということを聞かれもしないのに言って来て一人前の行者になれた人はだれ一人いない。

修行したいなどと言っても、結局は自分の霊感を第一の寄る辺として振り回され自滅する。

修行して残った人はそういう強い霊能があっても自己を誇らず、必ず、それが何なのか?どう考えるべきか?の答えを常に私に問うてきた人だ。

自慢げに霊能アピールしてくる人は例外なく講員になることもお断り対象だ。

面倒で扱いづらくて周囲にまで悪影響がある。まっぴらごめんだ。

こういう方々は 大体 こうなんです。ああなんです。と一方的に結論を言い放つだけ。

ひどいのは、自分のお告げの解説をしてきたり、そもそも霊というものはこれこれこうなんです。と蘊蓄垂れてくる者もいる。

それで自分には才能があるなどと内心自信があるのだろうが、私に言わせればそれこそがまったく身の程知らず、恥知らずだ。

 

そういうことを口にして当院では生き残った人はいない。

そもそもそういう人間に修行させる気もない。

得度、修行などさせれば、ますますお墨付きで独りよがりのお告げを乱発して世の中の迷惑になるからだ。

ひとりだちすれればともかく、口を慎むというのが修行中の極めて大事な徳目だ。

たとえどんな霊能があってもおしゃべりはダメだ。口を慎む人だけが残る。

キメの一手 水歓喜天供別座

災難除けの秘中の秘「水歓喜天供」

今一座終わりました。

ある騒動をずっと祈っていますがもうそろそろ終わりにしたい。

水歓喜天は慈悲忿怒を兼ねる行法と言われます。

浴油供とどう違うかといえば、この行法はより除災に特化した行法です。

十一面様のお体を洗った加持水で六臂歓喜天の単身像を洗います。

観世音の徳を直接聖天尊に施します。

 

映画「ラム」言い知れぬ思い

人間の体をした子羊が羊から生まれてしまう。

登場人物は3人だけ。

この奇怪な子に亡くなった子供の名前を付けかわいがる羊飼い夫婦、ふらりと帰ってきたその弟。

当初、主人公の弟は半獣の子供に驚異の目を見張り、これは人間ではないと拒否する。

なにかラストでこの奇異で不思議な子供の身の上に凄惨なことが起こるのか・・

と思ったがそうではなかった。むしろそれは・・・

まあ、結末からすればホラーで想っていたほどシリアスではない物語だが、舞台のアイスランドの自然がきわめて美しいだけでも一見に値すると思う。

klockworx-v.com

日本には「件」という妖怪がいる。人面牛の体。逆に牛面人身。

両説あるようだ。

くだんと読むが、なるほど、この字は人と牛からできている。

預言の力を発揮し、ただし短命だという。江戸末期や明治のはじめには瓦版にもなった。

人魚や河童と同じで生き物として実在するわけもないと思うが、何か人間の心の中に日頃ほしいままにしているモノ言わぬ家畜のいい知れぬ思いのようなものを感じるゆえに彼らの伝説は生まれるのだろう。

野獣ではないゆえにかえって業を感じる物語だ。

 

 

映画 「百花」恩も恨みも記憶の彼方へ

現代の若手大物俳優 菅田将暉、ベテラン女優 原田美枝子共演で親子役。

認知症を患い今は断片的な記憶のままに行動する高齢の母。

いっぽう息子に残る一時期、幼い自分を捨てて男のもとに走った母への疑念。

 

ないようにみえて現代のどこにでも潜んでいそうな老いのテーマだ。

 

hyakka-movie.toho.co.jp

・・・だが恩讐を超えて最後には、ただ、ただ母へのいとおしさだけが残る。

どんな母もある意味重要な自分の一部なのだと思わされる作品。

 

子を持ったからと言って人は立派な人間になれるとはいえない。

ましてや聖人になれるわけではない。

だが現実にはどうであれ、どんな人であれ子の前で立派な人であろうとすることは親の義務だと思う。

子が生まれるとき親も同時に生まれる。

初めからりっぱな親がいるとも限らず、子どもだからといってすべてにおいて稚拙だとは言えない

ともにそこから人として成長の道を歩むというのが本当だろう。

科学も進歩も本能のなせるわざ

あんなに欲しいと思ったものも手にいれたら当たり前、日ごと色褪せて見えさえもする。

これは人という動物の本能であり性です。

この本能があればこそ発明発見があり科学や医学的やあらゆる文明がある。絶えず満足せずに進む。

そう考えれば種としての欲望は我々から失われてはならないのかもしれません。

 

でも個人は必ずしもそうではない。

「我だだ足るを知る。」とはそれです。

自分にとっての満足はあってよいはずだと思います。 

科学だ進歩だというのは実は我々のもっとも原始的本能と思います。足るをしるこそ叡知の所産。

政権の崩壊を祈る

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ドン・キホーテなみに1人相撲でロシア退散を祈ってきた私だが

ウクライナ優勢になってきてそこは実に喜ばしいと喜んでいます。

だが、この上はロシアのプーチン政権崩壊を祈ったほうが解決の近道かも・・・

それがウクライナ・ロシア両国のためだ。

今度はそっちで祈りましょう。

たとえ、大河の一滴にもならなくても祈りたい。

祈りとはそういうものだ。

授戒、伝授その23 善龍庵さんのブログ

oomorigijyou.hatenablog.com

羽田 談

どなた様かは存じ上げませんが・・・

『信仰をどう実生活に活かすか」というのが自分の課題でしたので、少しづつ進歩はしているようです。

引き続き「山の修行」「里の修行」を繰り返しながら、あせらず、じっくりと信仰を深めて行きたいと思います。』

はとても大事なことと思います。

叶わぬ夢は人生のお守り

ある講員様、一流企業にお勤め、

経歴は大学院まで仕事しながらも出た。お子様も誕生まじか。

今年、おうちも車も手に入れて順風満帆。幸せいっぱい。

これでよし!

こういう状態でいよいよ前々からしたかった専門的修行をしたいという申し出があった。

これが叶えば「望月の欠けたることも無きと思えば」でしょうけど・・・

しかし、これは止めておいた方がいい。

宝物の積載オーバーは転覆につながる。

望月は欠けるのです。

宝船のイラスト | 無料のフリー素材 イラストエイト

この歌うたった藤原道長、上の句は「このようを我が世と思う」というものですが、この歌の後に急転落、ついには糖尿病でなくなった。一族も急速に衰微したという。

積載オーバー!

弘法大師の書かれたものというのは最初に少し墨をどこかに垂らしてあるという。

ホントかウソか知らないけど。

でもこの「欠け」を作るというのが優れた智慧なんです。

完全なものは次の瞬間、即欠けていく

陽満ちれば陰に転じる。

 

転じないよう満たしてはいけない。

まだかなわぬ夢、それは人生のお守りだ。