金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ボケも極めつけ

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「ロシアのプーチン大統領けが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言した。

 

 

ボケも極まったか。ゼレンスキーは攻め込まれた戦争当事国の人だ。

国民に厳しい防衛線を差配しているのは当然のことだ。

その意味ではゼレンスキー政権下のウクライナ人は当然苦しんでいる。

他の面でも必ずしもよい大統領と絶賛すべきではないかもしれない

だが侵略者と同列に論じるのは強盗と被害者との人格を比較して云々するに等しい。

次元の違う話だ。

ここまでぼけているとかばえないね。

老害だ。

抑々、西側の報道ばかり聞いていると批判する森先生が一般報道人も知りえないロシアがウクライナに侵攻する正当な訳や裏事情を知っているとは到底思えない。思い付きでものを言っているのか?

もしそう思うならわけを説明していただきたい。

森先生、恥の上塗りですよ。

ある尼僧の教え

これはある禅尼さんから若いころ聞いたおはなし。

お寺の信徒さんから「尼僧さんは座禅を良くしますか?」

「禅僧ですので私は一応毎日いたします。」(最近は自坊に帰れば全く座禅しない禅僧さんもいるらしい)

信徒「すごいねえ!いいなあ。」

「僧堂では日課ですから、自然と身に付きますので。」

信徒「今日は寒いですねえ。でも徹底して座禅して修行したら、もう暑いとか寒いとかは感じなくなるんでしょ?」

「・・・・?」

尼さんは何も言わなかったそうです。

 

そして私に「一体、禅の修行をなんだと思っているんでしょうね。そもそも暑いや寒いもわからないような人間が悟りなんか開けると思いますか?」と彼女は語った。

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自分の慈悲一つで止めておく

親類縁者が重い病気なのでというので祈願を頼まれたが、聞いてみると先方は誰もお札を拝む人はいないという。

そもそも先方に祈願してほしいという声も何にもない。

 

心配で自分が頼みたいだけだという。

 

そんな状況でお札を送ってもどうにもならないので「やめておきなさい」といった。

死ぬような病を本気で拝むなら毎月祈祷がいいし、かといって頼みもしないものを毎月送られても先方は定めし迷惑だろう。

「もう十分ですから・・・」と言ってくるに決まっている。

あるいははっきり迷惑だと言われる可能性だってある。

さりとて自分の気やすめ的に一回ばかりお守りや人型を送るならただの自己満足にすぎない。それは信仰の押し売りだ。

私自身、「こんなのでは効かない」と思う祈祷をするのは不本意だ。

ハッキリ言って嫌だ。

祈願は神仏に向かい合うことだ。お布施をもらえるからいうとおりにするというものではない。

 

勿論、御親類を思う気持ちは尊い慈悲であることはまったく間違いないが、ものごとは自分の慈悲ひとつで止めておくことが肝要なこともある。

私は親族、友人でもそれはたのまれない限りは一切祈願などしないことにしている。

自分で仏様に手を合わせば十分です。

どういう祈願をすべきか

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「死ねばいい」などと言えば二階先生が怒るのももっともだが、実際、二階先生に死んでもらいたいというようなこと言う人はいるでしょうね。

でもそれは人間としての二階氏というのでなく政治家としての二階氏にNOを出す人々でしょうね。

だから先生が引退されておうちで趣味にふけっておられるならどうでもいいんでしょう。

 

ここに重要な問題がある。

 

誰かに消えてもらいたいと考えてもその作用が亡くなれば消えてもらう必要はないわけですよね。

会社で嫌なあの上司はくたばれ、どっか左遷されてしまえとか思っても、事あるごとにパワハラや嫌味を言わないならいなくならなても別段かまわないわけだ。

 

ただ自分の中でそのイメージでしか相手を見られなくなっています。

そうなると次元が張り付いてしまう。そのストーリ-しかなくなくなる

同時に相手もダメなあなたしか見えていない。

 

でもようやく望み叶ってそいつが辞めてやっといなくなったと思ったら次の後継からはもっと怒られたりして、それでようやく自分の問題かも・・・と気が付く。

だってそういうストーリーですから。

 

本当はすべて自分の問題です。

だれが悪いとか良いとかでなく環境は自分のこころの影ですから。

その辺を勘違いしてその人どうにかしてほしいという気になってしまう。

いっそ死んでしまえば一番いいのにとすら思う。

それが人のまごうことなき本性というもの。

 

でもそのような恐ろしいことまで願わずとも自分が害を受けねばそれでいいはず。

害のないよう祈れば済むこと。

天下国家のことはまた別でしょうが、もしも人間関係で祈願するならそう祈願すべきだ。

 

恐ろしいトラでも人家の近所に出ないで山奥で幸せに暮らしてもらえばそれでいいわけでしょう。

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大事な事は何か

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こういう事実まで差別発言だという差別馬鹿がいる。

外国人とはおおざっぱだが外国の人には別してお願いがいるということが趣旨だろう。

今のところ差別だとか言っている声は声高にはないようだが

大事なことはなんなのかのほうが文字通り大事だ。

「先方の発言を私から申し上げるのは控える」はおかしい。

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ロシアによるウクライナ侵攻に対する中国側の見解については「先方の発言を私から申し上げるのは控える」としたうえで、「核兵器を使ってはならないということについては間違いなく一致した」と強調しました。

 

「先方の発言を私から申し上げるのは控える」はおかしい。

勘ちがいも甚だしい。

個人ではなく国を代表していったのだから国民に報告すべきでしょう。ありえない発言だ。

総理大臣閣下が国民に言わないでだれが言うのですか?

忿怒尊の選び方

神将や荒神、摩利支天、明王など忿怒尊を祀る時、とかく迫力あるお像を祀りたいという人は多い。

だがこれには程がある。

余りに怒りの表現がオーバーなものはよろしくない。

最近はただやたら怒りの表現ばかり強調して酒飲みのオヤジがただ怒鳴っているような作りのものを感じる

怒りの内にも品位や慈悲がにじみ出るような尊像が良い。

不動明王なども不動の心を表すのであるから、そもそも口を開いて呵責するようなものは儀軌的に間違っている。口はしっかり閉じているのが正しい。

愛染明王はまなじりは怒りを帯びて釣り上げるが口元はやや笑うようにつくるのが上手な作り方で、貴人の瞋怒するように作る。顔は不動尊のようにゴツゴツとせず丸く作るのが良いとされる。

いずれも内面的な煩悩や悪業への怒りの表現が感じられねばならず、誰か個人に向かって怒っているようなものはダメである。

不動は奴僕の三昧、愛染は王者の三昧にある。

師匠はそういう意味で余り度を越した怒りの表現ばかりを強調した尊像は好ましくないと語っていた。

上手な作りでも度を越して怒り形相のものは騒動や災難の鎮静を祈る折にはよいが、普段に祈るには逆にもめ事や騒乱を呼ぶことすらある。

古仏の場合は調伏祈願のために作ったものもあるので怖い。

そういう因縁をもたらしてしまう。

故に怒りの形相すさまじい尊像は秘して祀ることが多い。

基本的に顕に祀らないほうが無事だ。

聖天のような獣面のものもその意味では忿怒尊に準じる。