「死ねばいい」などと言えば二階先生が怒るのももっともだが、実際、二階先生に死んでもらいたいというようなこと言う人はいるでしょうね。
でもそれは人間としての二階氏というのでなく政治家としての二階氏にNOを出す人々でしょうね。
だから先生が引退されておうちで趣味にふけっておられるならどうでもいいんでしょう。
ここに重要な問題がある。
誰かに消えてもらいたいと考えてもその作用が亡くなれば消えてもらう必要はないわけですよね。
会社で嫌なあの上司はくたばれ、どっか左遷されてしまえとか思っても、事あるごとにパワハラや嫌味を言わないならいなくならなても別段かまわないわけだ。
ただ自分の中でそのイメージでしか相手を見られなくなっています。
そうなると次元が張り付いてしまう。そのストーリ-しかなくなくなる
同時に相手もダメなあなたしか見えていない。
でもようやく望み叶ってそいつが辞めてやっといなくなったと思ったら次の後継からはもっと怒られたりして、それでようやく自分の問題かも・・・と気が付く。
だってそういうストーリーですから。
本当はすべて自分の問題です。
だれが悪いとか良いとかでなく環境は自分のこころの影ですから。
その辺を勘違いしてその人どうにかしてほしいという気になってしまう。
いっそ死んでしまえば一番いいのにとすら思う。
それが人のまごうことなき本性というもの。
でもそのような恐ろしいことまで願わずとも自分が害を受けねばそれでいいはず。
害のないよう祈れば済むこと。
天下国家のことはまた別でしょうが、もしも人間関係で祈願するならそう祈願すべきだ。
恐ろしいトラでも人家の近所に出ないで山奥で幸せに暮らしてもらえばそれでいいわけでしょう。