金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

お供物

信仰熱心な方ほど「お供物」にはこだわりがあります。
ずうっと昔のことですがカンズメはあけてあげないといけないのかという質問がありました。そこの御家は聖天様の御札をおまつりされているので、時々あずきカンズメをお供えするのですが家族の意見がこのことで割れていると聞きました。
カンを空けてあげろという人はカンズメのままじゃ聖天様が食べられないじゃないかと云うのだそうですが、確かになにかにつけなるべく具体的なことをすることを天部信仰においては喜ぶ傾向はあります。
一方カンのままであけないでもいいという人は空けたら後に食べないともったいないし、かといってそうそう頻繁に餡子なんて食べられないというのだそうです。またそれなら酒の一升瓶もあけておくのか。それはおかしいだろうという疑問があるとも聞きました。
日本酒の一升瓶はあけておいたら気が抜けますし、酸化してしまうのは当然です。夏なら小バエがわんさときます。これは少々困りますね。
まあお酒はあけはなさないないにしても、これはどっちが正しいは無いと思います。こういう問題は天部信仰をする方だけでなく、時として御仏壇のお供物にも同じような迷いが生じましょう。

思うにようするに自分が御給仕した気持ちになるのが大事なのです。私は別段、お供物なんて「気持ちのもの」で召し上がる存在はいないのだというのではありません。
開けようが開けまいが召し上がれるはずなのです。
だけどそこを開けてあげたいというのはお酒ならお酌してあげたいというのと同じです。
サラダならお皿に取り分けてさしあげましょうということです。

密教作法ではお供物を上げたら普供養偈というのを唱えますがこれはお供物の心をよくあらわしております。
我今献じ奉る諸々の供具
一々の諸々の塵は皆、実相也。
実相は法界の海に周く辺す。
法界は即ち諸々の妙なる供えものなり。
自と他と四法身を供養し
三世に亘りて常にあまねく供養す。
不受にして受け哀みて納受したまえ。
自他ともに秘密蔵に安住せん。
ここで言われているのはようするにすべてが御供えなのです。
そしてお供えする我らもそれを受ける神仏もお供えされるものも全て等しく真如実相の現れです。ここまで聞けば供えるも供えないもないようようなものですが、それでもなおお供えするのです。もっというならそれだからこそお供えをするのです。
実はここのところが密教の醍醐味的なところなのです。

日本の御馳走と云う言葉には走り回って美味しいものを調達する意味があります。
馳も走も走るという意味です。
神仏には料理ではなくむしろこの心そのものが最も良いお供えです。

先に云ったようにお供えのカンズメを開ける開けないに正解などないと思うのですがその時は「いつもではなくお縁日とか何か特別な祈願をするときにはお酒も酌んでお供えし、あずきもカンから出して盛ってお供えしてみたら。」とお答えした記憶があります。