金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

祈願と修行

当院は祈願道場のためか、時々祈願についてこのような質問を受けます。
「○○真言を十万遍も唱えたのに祈願が叶わない。この上はどうしたらいいのでしょう?」
そんな時私は「では二十万遍してみたら」とはいいません。
儀軌にはよく何べん真言をとなえたら叶うとかと確かに書いてありますね。
そういうのをご覧になってすこしく専門的な知識がある方の質問だと思います。
この辺が難しいのですが、たとえば何十万遍でなく」もっと短く一遍、七遍とか二十一遍で無量の罪が滅ぶという真言もあります。
浅草寺の故清水谷先生が観音全集の中で「一どきに重い罪障や悪因縁が滅ぶ真言がありますか」と云うのに対し、「あるけど授かりに来ればその時教えます。」とお答えになっています。
このわずかに数遍唱えれば罪業は滅ぶというのは儀軌に書いてあるからだけではなく、清水谷先生の信仰だと思うのです。
そこに重い信仰があるからこそ授かりに来れば…になります。文中で「それは〇〇陀羅尼だ」とか、「それは○○真言です。」などとはおっしゃっていません。
授かる側にこの信仰が同じようにあるなら罪業は本当に滅ぶでしょう。
浄土教阿弥陀如来の念仏十号で往生するかどうかも似た問題です。
大事なのは「信」です。
浄土思想はともあれ密教真言は修行としてなら10万遍でも100万遍でも大いにとなえたら良いと思います。興教大師様は100万遍の真言を唱える虚空蔵求聞持法をなんと七、八回もされています。
しかし祈願はどうでしょう。そこまで唱えたらかえって祈願がなかなか叶わないという前提ができてしまうかもしれません。10万遍唱えたら叶うというのは裏を返せば10万遍唱えないと叶わないということと同じです。
そんなに祈願を遠くにおいてしまっては人によっては私の祈願は叶い難い難しい祈願と云うことにしてしまします。
私は祈願のためにはどのくらい真言を唱えればといいのかという質問に在家の場合は気が済むまでとか自分でいいと思うくらいということを申し上げております。
もしそこで自分がいいと思う数が10万遍ならそれもまたいいでしょう。