金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

祈願は叶うもの

祈願と云うのは叶うものです。叶うべきものが叶うのが祈願です。
叶わないというのはなにかがおかしいのです。
叶わない理由としては代表的なものに「本気ではない。」「本心ではない。」「叶うと不都合がある。」という三つがあります。

「本気ではない」というのはどういうことでしょう。たとえば世界一の大金持ちになりたいなどと云ってもこれは普通は本気ではないのです。
「そんなことないよ。」というのなら世界一の金持ちとはどういうものか把握していますか?普段の仕事は何をして、どんなところに住んで、どんな人達と付き合っていますか?この人の下にはどのくらいの数の人たちが働いていたらいいのでしょう。資産はどのくらいですか?どう管理していますか?そしてあなたはその金持ちになるためにまず、何をしようと考えていますか?さらに資産家としての信念やポリシーとは何でしょうか?
若し、そんなのはわからないというのならお金持ちになりたいのではなく,単に貴方はお金に「あこがれ」ているのです。お金が有ったら多分幸せだろうからお金を持っている人つまり「金持ち」になりたいというだけでそこには飛躍があります。
お金持ちにも数々のリスクがあります。そこを乗り越えてでも金持ちになりたい人だけが金持ちになります。そこがまず第一関門です。
まず、金持ちは必ずそのまま幸せな人であるのかどうかも分かりません。
金持ち=幸せな人と云う単純な考えは多くの場合、それが思い込みだと本当のあなたは知っているのです。

二番目の「本心ではない」というのは本当は自分の希望でなく他の人の期待を自分の願いや気持ちと勘違いしているのです。たとえばそうすると親が喜ぶから,配偶者が喜ぶから…などです。自分自身の希望ではありません。
勿論、人を喜ばそう家族の笑顔が見たいというのは悪い事ではありません。
そうならば「家族を喜ばせたい」と云う祈りをすべきです。「おもてがき」と「中身」が違う願いはかないません。
それは注文主が間違っている書類のようなものです。原則として祈願は注文主と受取人が一致していないと叶いません。
ですからたとえば他人の御祈願の場合はあくまで自分の祈願として祈るのです。
たとえば病気で寝ているままの友人によくなってもらいたいなら「元気なあの人とまた一緒に人生を楽しみたい。」という風に祈願します。
また自分にはふさわしくないなどと思う祈願も同様に叶いません。

三番目は「叶っては都合が悪い」と云う祈願です。たとえば病気が治るとまた、あの辛い学校や社会に復帰をしなくちゃいけないなどとものです。「本心を言えばいっそこのままのほうが周りが何とかしてくれそうだし、優しく接してくれるし都合がいい。」などと思うようではこれも叶いません。しかも病気なんだから仕方ないと堂々と言い訳できます。
また、出世したら部下ができて人間関係が面倒だし嫌だなと思えば出世できるような成績はあがりません。それで「俺って出世しないよな、、、」等とぼやきますが本当は出世しない方が安心なのです。
同じようにたとえば嫁が欲しいけど嫁が来たらうちは嫁姑問題で苦労しそうと思っていれば結婚は避けるべきことになりますし。嫁に行きたいけど知らない家でやっていくのは嫌だなと云う気持ちが根底にあればそれいうチャンスを避けるよう人生は展開していきます。こういう場合は矛盾している気持を明確に意識してそれでも本当にすべきことをしようと云う選択の決断をしないと叶いません。
実は人間には変化を嫌い常に現状を維持しようとする心理が働きやすいからなのです。ここのところは敢えて乗り越えないと前には進みません。

祈り倒してでもかなえたいなど祈願と云うのはえてしてこの類です。
叶わない方がいいのです。ですから盛んに望んでいるふりをします。嘘だと思うなら叶った後、それはどうなるか想像してみましょう。考えられないというのではまず駄目です。
逆に叶った後が想像できる祈りなら見込みがあります。
例えば恋人が欲しいという人はそういう人と出会ってどうなりますか?一か月、三か月、一年後、貴方はその人と楽しく交際していますか。関係はどう進みましたか?それが想像できますか?そこが大事です。
以上の様な祈願はいわば全て「申請書類に間違いのある祈願」となって神様、仏様の祈願用窓口で受け付けられません。書類不備で差し戻しとなります。祈願は受け付けられれば普通は叶うものです。