金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

怖い仏様

怖い仏様というとお不動様などを思い出します。毘沙門様も怖いお顔です。
そしてこれらの仏様はあるいは半裸形であったり鎧を着て武装しています。
この前「仏様なのになんであんなに怖いの?好きじゃないな。」という人の意見を聞きました。
確かに仏様は大慈大悲の存在ですが優しいばかりが大慈大悲ではありません。
人間には怖れるという感情も必要ですし、怒りだって必要です。
最近は私の「観音さま」の本を見て尋ねて見える方もいますが、観音様は当然本尊ですからドンと安置されていますが、その周りにズラリと恐ろしげな神仏がいるので怖がったり、驚く人もあるようです。
密教の諸尊には怖いお顔や手に武器を持つのみでなく、顔が沢山あったり腕が沢山あったりもします。人間のお顔をしていない獣面のものもあります。
神様や仏様は美しく優しいものとばかり思い込んでいる方にはショックでしょう。
なかにはどう見ても悪魔か妖怪のような姿のものさえもあります。
室町時代の末に日本に始めてきた宣教師は不動明王を拝む人々を悪魔崇拝の人たちと本国に報告しています。
どうしてそんな神仏がいるのでしょう。
忌憚なく言うと外見の美しいものばかり見て真実だと思い込んでいる。そんな心をあざ笑うために存在するのだとでも言いましょうか。

密教では何にでも真理が隠れていると考えます。
つまり真理とは我々の頭で考えた真、善、美のようなものであるとは限らないということです。美しい花のなかにも毒蛇や毒蠍のようなものにも同じ真理が働いています。
キリスト教の信仰をしているある学校の生徒さんが武道は人を傷つけるためのものだから神の教えに反すると云うことで柔剣道の授業をボイコットしたことが昔、話題になりました。
勿論、密教では仏様ですら刀や槍を持っていますからそういうことは考えません。
しかしながらこれらは殺人の具ではなく心の煩悩不浄を祓う武器です。同時に武道も自らの弱さに勝つためのものでしょう。
無論悪用すれば何でも凶器になりえます。ハサミや包丁でも人は傷つけることができます。
ですから、何をするかより何のためにするのかが密教ではさらに大事なのです。

亦、密教では能面状態のとりすました真理や宝物のようにどこか宇宙の果てに秘められている真理のようなものは認めません。真理はどこにでも如実に存在します。存在即真理なのです。ですから喜怒哀楽の人生の中にそのまま真理があると考えます。
怪物の様な神仏に驚くのなら、その姿を通して自分のなかにあるどす黒いものをも見てそこにこそ驚いて欲しいと思います。
外に醜さを感じるのは内にその醜さがある証拠なのです。
もしあなたにとって怪物のような怖ろしげに映る神仏が存在するのであれば、多分その像は貴方にそれを告げようとしているのです。