金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

念彼観音力

観音経と云えば「念彼観音力」のフレイズが有名です。普通は「彼の観音の力を念ずれば・・・」と訳されます。観音経ではそうすれば色々な災難を逃れられるとしていますが、こういってはなんですが私はその訳語はあまり良いは思いません。
このフレイズは「彼の観音を念ずる力」と云うのが本当だと思っています。
「梵漢対照新訳法華経」(平楽寺書店刊)では原典的な梵文の訳としてに「観世音菩薩を念ずれば云々」となっています。ですから読まれている漢訳経典からの直訳として「彼の観音の力を念ずれば・・・」が正しいでしょうが原典的に言えば念ずべきのは観音の「力」ではなく「観音菩薩」そのものであるというべきでしょう。
ではこの二つはどう異なるのでしょうか?
漢訳の「観音の力を念ずる」というとどういうイメージでしょう。
まず「力」のある観音さまと云うのが前提です。これ自体はとてもいいでしょう。
ただ、観音さまは「力」があるのでだからその「力」こそを頼むのだというのは一方通行的です。
ここでは結果、観音さまから来るのは力つまりパワーだけだという認識になります。ところが実際は観音さまに必死に祈ったけれど成らないこともあるものです。

そうなると念じ方が良くないのか、信仰が足らないなど。あるいは甚だしきは観音様なんていないのだなどと云いますが、実はそういうことよりも観音さまからのメッセージが受けとれていないことが問題なのです。
観音さまを祈ることは信仰の心ですべきであり、物の注文とは違います。
ですから「力」ではなくトータルに観音さまを念じないといけません。
押しつけがましい要求だけでは観音信仰とは言えないのです。それで初めて向こうから来るものも受け取れます。
ですから一番初めに「汝、観音の行を聴け」とお釈迦様は言われています。
観音の行を見るではなく聴くというのは普通観音経の内容をお釈迦様が宣べているご利益の羅列のようなものを聴けと言っているという解釈をしてしまうかもしれません。それも一応の解釈です。
しかし、本当に大事なのは観音様の声に耳を傾けるということです。別に霊能者になりなさいというのではありません。
観音さまの声を聴くということは我々が観音様を祈った結果として何がどうなったのか、あるいは何が変わらなかったのか・・それを観音様の御声として聴きなさいということではないでしょうか。つまりそれがお釈迦様の言われる「観音の行を聴け」です。
観音様を信仰することは祈願することとそのままイコールとは限りません。
ひたすら一方通行の押し付けがましい要求だけで観音さまの声に耳を傾けないのでは信仰としては甚だ不足です。