「世皆所希有 有求色美者 発願宛然至 莫須言遠近」
世に皆稀有とするところ 色美を求むる者 発願すれば宛然として至る。
すべからく遠近を言うなかれ
珍しいものや得難いもの、遠近も関係なく願えば得せしめると言います。
昔の霊験記などでは貴重な得難い本などを聖天様に祈って得た話もあります。
人間の心でこれは難しいとか、なかなかとかいう判断は必ずしも必要ありません。
尊天の智慧は我々を凌駕しています。
色美は昔の使咒法経の注釈書では色の美しいものと言うことになっております。
色気のある美人が得られると言う意味ではないです。(笑)
「高貴及難易 志心於我者 我使須臾間 」
高貴、難易のことも我において志あるものは我須臾の間に使わしむ
ここのところは大事です。
例えば、なにかしらの分野で一流だのトップだのにのぼるとかいうものは当然、頑張っても時間がかかります。
しかし聖天様に関しては修行や下積みが要らないで叶うものはそう時間がかかりません。
だから叶わない場合はあなたの側の条件が満たされていないのです。
或いは無理なことを望んでいるのではないかと考え直してみることも大事なのです。
「有衆生疾苦 顛枉及疥癩 疾毒衆不利 百種害加悩 誦我陀羅尼 無不解脱者
衆生に疾(やまい)の苦、顛枉及び疥癩 疾毒、衆(もろもろ)の不利、百種の害を加えられて悩めるに 我が陀羅尼を誦せば 解脱せざる者なし
これは健康についての御救いを言っております。顛枉は顛狂と書いてあるものもあり。簡単に言えば精神疾患です。疥癩 は悪性の皮膚病、そのほか百種のあらゆる病も真言を唱えることで解脱を得ると言います。
ここで大事なことは真言自体は薬ではありませんから、勿論医療を施したうえでの話です。
そういうことは先ほどお話したように自分の側の整えるべき問題に入ります。
聖天さまの側の問題ではないのです。
真言は人と必要なものを結び付ける力です。聖天さまが良き医療との縁を結んでくれます。
良く愚かな人は信仰で治るなら医者はいらないなどと言いますが、信仰は医療の代用ではありません。
逆に言えば医者だけで治るなら世の中に病気の祈願や信仰もいらないはずです。
「獨行暗冥處 依我皆無畏 」
独り暗冥の処に行くにも我によれば皆畏れなし。
物騒な場所や不慣れな場所に行くにも聖天様を念ずればおそれはないといいます。
此の暗冥と言うところは暗に死後の先を言っていると思います。死して四十九日の中陰にさ迷うときにも聖天様を念じます。
聖天様は閻魔八眷属の一人でもあります。もっともこれは聖天様はお約束で喪中は拝めませんから、亡くなられた方が聖天信者で自分で念ずることを言います。
歓喜天講式に死後、女天は百宝の花台を掲げ信者を浄土へいざない、男天は死に際して来る魔障を払うと言います。
「劫賊忽然侵 我皆令自縛 」
劫賊の忽然として侵せるとき、我皆おのずから縛せしむ。
劫はかすめるとよみます。すなわち盗賊ですが、これには内なる賊と外なる賊があります。
外なる賊は盗賊ですが、内なる賊は社内の使い込みやレジをごまかすものなどです。
さらにこれも深秘釈で言えば煩悩の賊を言います。
「若欲自然福 若有求女人 夫心令得女 我必令相愛 」
もしくは自然の福を求め。もしくは求める女人あるもの、その心をして女をえせしめ我必ず相愛せしむ
自然の福とは何でしょう。それは人間としてのあたりまえの幸福です。
つまり愛する伴侶を得て、明るく楽しい家庭を持つことでしょう。
ここには求める女人とありますが求める男子と書いても当然良いわけです。
これが敬愛の功徳を言います。
「世間陵突者 我悉令催伏 」
世間に凌突するもの 我悉く摧伏す。
これは世間のトラブルですが、これを摧伏する。
ここで大事なのは相手を摧伏するとは言っていない点です。
問題を摧伏するのが本義です。
「逍遙自快樂」
逍遥としておのずから快楽す。
逍遥とはあちこちブラブラ散歩することです。
聖天信仰の生き方はシャカリキではない。
自分でどうにもならない領域は聖天様の領域とこころえ、根を詰めず聖天様にまかせて大船に乗ったような気持ちでいつもおおらかで呑気でいなさいと言うのが聖天信仰です。
このおおらかなる部分が実は一番、聖天信仰の肝心なところだと私は思っています。
欲や瞋りでおおらかなこころを失えば歓喜を失い、聖天様とは波長が合わなくなります。
聖天様はきわめて強力な神様ですがそのお顔はおとなしいゾウさんです。
虎やライオンのような猛獣ではありません。力は抜群に強くても猛々しさはない。人間と共存できるおとなしく利口で温和な動物です。
歓喜天の歓喜とは逍遥の心だと思います。