金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

十一面観音随願即得陀羅尼経 講義 その6

「如何に況や たやすく受持読誦せんをや

もし至心に呪を誦して我を念ずれば 現身に飛行自在、神通変化を獲得せんこと

我と異なることなきがごとし

若し次に人あって貧窮下賤にして 多く病苦を受け、愚痴暗鈍にして 善悪をわきまえずとも もしこの呪を誦持し、わが名号を唱えれば一切の求めるところ必定して成就せん。」

 

ここには十一面様の誓願が説かれています。

この真言及び十一面観音に出会うことが救いなのだと。

私はよく最低限「現身獲得飛行自在 神通変化如我無異」だけと唱えていればいいのではないかと言っています。

これは観音のご誓願だからです。

「飛行自在」と言っても空を飛べるとかではない。

空を飛んでいる鳥でも自由自在とはいえない。

そういうことでなく自由な境涯にぱっと飛び出せること。

それが飛行自在。

「神通変化」とはなにか。

観音さまは33変化身と言って、あらゆる姿で我々のすぐそばにいる。

それはあらゆる面で人を救うというご誓願によるものです。

それには柔軟でないと無理です。

いかようにも自由に変化する我、過去を引きずらぬ我、形にとらわれない我。

それが「神通変化如我無異」ということ。

観音さまを探しても肉体を持つ観音様などいません。

そういう人はいません。

自分でそんなことを言うのはおかしな宗教の教祖様くらいでしょう。

ただ自分がそのおはたらきを頂くことはできる。

観音の自由自在さ、融通無碍さこそが神通力です。

霊能力とか超能力とかではない。

そんなものあっても真の自由にはなれません。

観音の真言を唱え、名号を唱えることには確かに不可思議な力はありますが

「それに依存せよ」というのではない。

まず、自分が観音さまに歩み寄れということだと思います。

貧乏でも、病気でも、名もなき路傍の石のごとく疎んじられている人でも、頭が良くなくても 人として過ちを多く犯して来たとしても観音に向き合うことはできる。

人は人の面倒を見るには限度がある。

どんなに面倒見の良い優しい心の人でも愛想尽かしはある。

宗教者だろうが福祉の人だろうが同じです。

ただ観音さまはそれがない。仏とはそういうものです。

あなたが今どこにいようが、向き合おうとすればその気持ちに応じて観音様もあなたの方を向かれましょう。

 

「一切の求めるところ 必定して成就する 」とは大金持ちになるとか、御殿が建つとかそういう世俗の願望ではない。

勿論世俗の願望も悪くないのですがそれは小さな願望です。

そういうのでなく「一切の衆生の求めるもの」と思っております。

人が一番求めるもの、それは自分を「認められる」ということ。

解放すること。

だがそれは誰も認めてくれないなら無理に思うでしょう。

観音様は一切衆生の未来を見据えてあなたも認めてくれると思います。

その利益を「施無畏」と言います。観音様の別名は施無畏者です。

 

「怖がることはないよ」というご利益です。