生死の海を越えて涅槃の岸に到らん
若しまた人ありて千万億那由多の署物の名号を称念するに
暫くも至心にわれの名号を称念するにはしかず
得るところの福はかれに勝らん
宿福薄きものはわが呪わが名を聞かず
いかんが、たやすく受持読誦するをや
この真言を信じてとなえれば、よく生死の海を越えて涅槃の岸に着くことができるだろうと十一面観音の真言をたもちつ功徳が明かされます。
さらに無数の仏の真言やら名号を唱えるよりしばらくも我が真言を唱える功徳に及ば福徳はむしろ勝るであろうといいます。
たくさんの御仏を拝めば拝むほど良いというわけではない。
一即多 多即一です。
胎蔵曼荼羅はそれを現しています。
だからこれは十一面様に限らない。なに様でも同じ。
自分が信じるみ仏を拝みぬくことが大事です。
あれが良いこれが良いと目移りする信仰は結局何も得られません。
次に宿福の薄いものはこの真言を聞くことも十一面観音の名を聞くこともないといわれます。
ましてや、今こうしてたやすく信仰して唱えられることなどを考えればいかばかりの福徳でしょうかと経典は言います。
宿福というのは宿世の福分、前世やそれより前に我々が作った福の種です。
そういう過去世があってはじめてであえた信仰。
でもこれも何様の真言でも同じにそう思う。
自分で探してこれだと思っても実は授けられた信仰。
授けられた真言。だから稀有の思いを致し、喜びを持って受持する。
それが信仰の基本です。
私たちの信仰も鵜私たちだけの意志で動いてはいない。
そこに法界の考え方が生まれます。
自分だけを分離し、自分がしていることだけに注目して生きてたらわからないことです。