金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

おたよりに答えて

ある方からこんなおたよりをいただきました。

「拝啓 羽田先生いつもお世話になっております。羽田先生から教わった拝み方をしてみたら祈願が叶い、おととい御礼の為の浴油祈願を申し込んでまいりました。
あつく御礼申し上げます。それに致しましても先生の著書やホームページを見てみますと色々な間違いにきづかされると同時に知らず知らずのうちに聖天尊の意に反している拝み方や信仰の仕方をしているのでは、という不安になることがあります。
そこで質問なのですが聖天尊への誤った拝み方や信仰の仕方を聖天尊に指摘していただける拝み方がありましたらお教え頂得ますよう何卒よろしくお願い致します。」

この方はうちの信者さんではありませんが、お手紙によれば聖天信仰をされていて私の話を参考にして拝み方を考えたところ祈願が叶ったということです。どちらの天尊にせよ心願が成就されたとのことは大変結構に存じ上げます。
さて、このお手紙を取り上げたのは最後の方にある「聖天様に指摘していただける拝み方」というところに焦点を当てたかったからです。
端的に申してこれは私に言わせますと聖天様からお叱りをうける拝み方と云うことでしょう。
注意したいのは受けるのはお叱りであって御怒りではありません。
お叱りは我々に注意を促すということであって直ちに天罰のようなものが下ることとは限りません。
まずそれには天尊の御心を敏感に感じ取らないといけません。
どうしたらそうなるのでしょう。
それは特別な霊能力的なイメージのものではありません。常日頃、人の心の動きに敏感であることと一つです。いうなれば気遣いができるということです。
人の心の機微がわかればおのずとこれは天尊がお嫌いなこと、お慶びになることの区別が何となくですがついてくると思います。
一番悪いのはそういうアンテナを一切たてずにがむしゃらに天尊に対し自分の願いを押し付けようとする人です。

実はいわゆる信仰熱心な人という人のなかにもこの手の人は少なくないのです。
本当のことを言えばそういう方は信仰に熱心なのではなく自分の欲望成就に熱心なだけです。
ましてや人のことなどお構いなしと云うようでは到底、天尊の御心を知ることなどはできないでしょう。
この気遣いをできなくするものは一つには今言ったようになりふり構わぬ貪りの心。
そして今一つは慢心の心です。
天尊に助けられていることを忘れ、なにか便利なアラジンのランプのようなものを手に入れたように思っている人です。あるいはそれすら忘れてなんでも全て自分の思い通りになるとタカをくくっている人です。
こういう人は信者だけでなく行者さんにもいます。自分が、もういつの間にかとんでもない偉い存在や神様になってしまい自分がやっていることは多少おかしくても全部正しいと思う人です。こういう人は正しい意見をされれば逆上や激怒します。
これは大変に危険なことです。
祭壇には本尊はいつの間にかいなくなって代わりに邪霊や悪魔がご本尊になってすわっています。慢心のためにたとえ霊感があろうがそれも気がつかないのです。
終いにはすべてひっくり返ります。
よくいわれるように聖天信仰は危険な信仰と云うのもこのためです。御利益ボケして自分が偉かったように思い、祈願の成就も実は最初から難しい事じゃなかったかように思うことです。
結果、有難いという気持ちはなくなり、慢心して御終いになります。
これは罰ではなく自滅するのです。
つまり悲しいことですが人間は祈願がどんどん叶い自由自在になるほどに悪くなりやすいのです。祈願が叶うこと自体は喜ばしいことに違いありませんがこの点を意識して警戒すべきなのです。