金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

淋しがり屋の神様

聖天様はご存知のとおり男天女天抱合のお姿です。
このお姿の示しているものは「男女の性愛」と短絡的に考えがちですが、そう限定したものではなく広く「つながり」であると思います。
ですから聖天様はすごく淋しがり屋です。
私の師匠は聖天信仰は「御姑さんを迎えるようなものと思え。」とよく信者さんに語ったものです。お年寄りは人の親切がうれしいものです。ちょっとした心使いですごく喜びます。でもちょっとした言葉や態度に心を開かなくなるかも知れない存在です。長年生きてきて人のわずかな言葉や行いで本心がわかるのでしょう。
聖天様も同じような御心の方です。


聖天様はつながりの神様。
つながりの神様ですから他人と繋がるのが大好きなのです。
私の畏友である聖天行者はよく「お聖天さんて親切だよね。」と口にします。
自分を頼る人を喜ばせたさで実際よく面倒を見てくれるのです。
だけど実際の心は聖天さんなんてどうでも良くて御利益さえいただければという人も少なくありません。
いってみれば財産目当ての恋人や結婚詐欺のような人がいるわけです。
それで一生懸命聖天さんを好きなふりをします。
裸足参りだの断ち物だのしてこれだけ熱心なのだというのでしょう。
でもほしいのは聖天様の御利益だけで聖天様は最後においてけぼりになる。
そうすると聖天様はお怒りになります。それが世にいう聖天の罰というものでしょう。
神仏は罰を当てないものですなどという人もいます。
たしかに我々より優れた存在で、何千年も修行してきた護法神が人間に裏切られて怒るなんて変ですね。自在神力の聖天様なら裏切る人だってわかりそうなものです。
そう思いませんか?
 
実は全部わかっているのです。始めの初めから。
この人は本当の信仰なんてないということも。
ご利益もらっても信仰心はなく増々増上慢になって貪るということも。
そしてしまいに自分が何でもできるように思ってしまうことも。
そういう人はついには罰を受けます。
此れって何の意味があるの?と思うでしょう。
意味はあります。その人がそこまでになってやっとわかることがあるのです。
そこまでしないと判らないという人もいるのです。だからそういう面では聖天信仰は怖くていいし、罰があったってもいいのです。
「神様は罰なんて当てません。」なんて言う毒にも薬にもならぬ生ぬるい信仰じゃあないのです。
人間は大金を手にすると人が変わると言いますがこれも原理は同じことです。本性が出ます。
人が変わるところまでいって正体も本性もすべてさらけ出させておいてたたく。
聖天様の怖さはそういう怖さです。
そうでないとわかりません。
だからそうならないために本当の信仰は「つながり」こそを大事にする。
御縁を大事にして暖めていく。
これは人と人とでも全く同じです。そこが極意です。