金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天信仰を止めてはいけないわけ

昔から聖天信仰ははじめたらやめないという約束事があります。
勿論法律じゃなく自分と聖天様の約束です。
お寺でも別にやめちゃダメとはまでは言いません。
じゃあなんででしょう。
それは聖天様に駆け込んでくる人は大概せっぱ詰ったり、欲で目がくらんだりしてまるでアラジンお魔法のランプみたいに思ってやってくる。
仏教の教えなんて御呼びじゃないという状況の人が来る。
もうすぐに何とかしてほしい。そこでどこかで聖天様のうわさ聞いてくるわけです。何にでもきっかけというものがありますからそれはそれで無理からぬことですが・・・・・
そういうのが段々頭を冷やして信仰というものが判るのには時間がかかるから聖天信仰は続けなさいということなんですね。
夫れ途中でやめてしまうと振出しに戻るだけ。
だから罰が当たろうが断ち物の取り消しが効かなかろうが聖天信仰は続けることになっているんです。
祈願というスタイルの仏道修行です。
とはいえ、いくら拝んでもなんの感応も無ければやめたっていいいでしょう。
御縁ができていない。
だったら別な神仏で良い。やめても聖天様に不義理になりません。
でも一番いけないのはご利益はもらったけど、最近ないからやめて余所へ行く。あるいは祈願が叶ったら用はない。ご利益食い逃げタイプ、
祈願が叶ったら感謝の信仰で良いのだけどそれが判らない人がいます。感謝が判らない。これはいけません。
そして最近祈願がかなわないのは何かが間違っているからと思わないといけない。
そういう人は聖天信仰はできないし、すすめられません。
聖天様は長く付き合ってこその方です。
困ったときの聖天様・・・で思い出したように信仰するものではないのです。
そういう覚悟は信仰を始める前にあって然るべきです。
うちはそういう失敗が無いように敢えて講員制度にしているけど、たとえそういうの無くたってやるべきことは同じなんですね。