金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

初期設定と一言主

「聖天信仰は初期設定大事だよね。」「そうそう」
こんな話が先日、法友との間で出ました。
特に行者は最初に「葬式は聖天行者なのでしません」と言えば、しては障礙が出る。
「○○しません」というアファメーションはしなくても聖天信仰は成り立つのにね。皆どうしてかそういうこというんだかね。
だから葬式しないと宣言しないなら葬式したっていいんです。葬式から帰ってきて沐浴して登壇すればそれでいい。
月に一度しか聖天供しなくてもいい。
例えば「お酒はもう飲みません」と言ったらヤリが降っても飲まないのでないと無理。誓っていないならいくら飲んだってオ-ケーです。
前にも言ったけど何も御利益なかったというならお約束取り下げでもいいと思います。でも代わりに祈願も取り下げることになります。
可愛がっている子猫が死にそうで「まだ子猫なのに…私の寿命の分少しあげてください。」といったけど、死んでしまった。これは不成立です。
寿命も減らないね。…たぶん。

実際ご加護があついほど、お約束もずっしりと重くなる。
だからご利益にうかれていてはダメ。
師匠寺で大成功したある事業家さん。いろいろ奉納もし熱心でした。
師匠の寺はモノの断ち物はしません。「怒らない、愚痴言わない。貪らない、素直。正直」が約束。
でも大成功したその方、ある霊場でそこの住職から「あなたには大日如来がついています。今日の成功もそのせいです。聖天さんじゃないよ。」
と言われて有頂天。
「もう御祈祷はいりません。」五つの約束ももはや関係なしと聖天信仰はさっさとやめました。
そして、そののち急逝されました。
これだけじゃないですよ。そういうのをずっと、ずっと、私は見てきました。

何もご利益なかったという人。お約束取り下げて後、なにも変化なければご加護もなかったんですね。
でも、注意してください。そのあと、どえらいことになったというのはそこを聖天様が抑えてくれていたのです。
自分はそんなこと知らなかったんでしょうけどね。
ご利益もらっているのに気が付かないということはあるね。多分に。
だから「いいや、別に御利益ないし…」と考えていいかどうかは自己責任。
たとえ話ですが、よく後になって「お酒飲まなくても飲んでもさあ、聖天様はどうということないんじゃないの?」とそういう理屈をこねて約束破るのは自由ですが、聖天様はどう思うかね。
わたしにいいわけしてもはじまりません。
でも、そもそも、本当にそう思うなら、そんな言い訳ゴチャゴチャしないでどんどんお酒飲んだらといいじゃないかと思う。
勿論、私自身は誰が何を約束しようがホゴにしようが、その結果どうなろうが痛くもかゆくもないですから。私の知ったことではない。
もちろん酒飲んでも飲まなくても聖天様だってどうでもない。
そうなのだけどそういう設定をすればそういう流れになるんだね。
理屈じゃない。聖天様はいいます。「そういう約束を決めたのは私じゃない。お前だ。」
本当にご加護のあつい人というのはは破ろうとしても破れない、そんなものですよ。ある行者さん。
禁酒を破ってお酒飲んでみたら、すごいまずい!エ~ツ、こんなまずかったっけ。こんなまずいならもう二度と飲まないと感じたそうです。
そこにほんまもんの霊威がある。ご加護がある。
そういう信仰ができていたらたいしたもんです。

明恵上人は若いころ何とか女性と交渉を持ちたいと考えたけど、不思議な邪魔が入って結局駄目だったといいます。それで結局、生涯不犯です。
当時だって、おもて向き結婚しなくても女性と接触のある坊さんは山ほどいた。僧侶の結婚が当然の現代の感覚ではいいんだかどうだかわらないけど…ともあれ明恵さんにはご加護があったわけです。
明恵さんの信仰が本物の証です。
去年、自転車旅行世界一周の浅村さんに葛城山に連れて行ってもらったら「あ、聖天様みたい…」な感じをお山から受けました。
今考えると「ああ、そうか葛城の一言主大神は聖天様と原理は一緒かも?」
「我は善きことも一言、悪しきことも一言、葛城山一言主の神也。」と名乗ったという。
聖天様の初期設定は書き換えができません。
そこは憶えておいてください。甘く見ていると大変です。
キリストさんもいいました。
「天をさして誓うなかれ、地をさして誓うなかれ」と。