私は聖天信仰する人を小僧時代から見てきたが、ご利益がなかなか頂けないからやめるという人は少ない。
いても、そういう人は大体どこでも続かない。極めて腰掛的信仰だ。
こことおもえばまたあちら。
もともと御利益さえいただければもう信仰なんかというタイプもいるが、聖天様を舐めてはいけない。
まず自己を顧みずに、神仏に力がないのだと決めてかかるうタイプなのだろう。
続く人においては大体の人が聖天様にたどり着くのにはいろいろ信仰してきてどうにもならずに最後の頼みとしてたどり着き信仰しているからかもしれない。
ではめでたく大きい御利益をもらうとどうか?
これが意外としっかりとした御礼などはしない人もいる。
もともと大病がなおったなどと言うご利益は大体お金が儲かったわけではないのだからそれは仕方ないこともあるが、では大きく儲けたらどうか?
逆にケチになるのが人と言うもの。永く信仰してきた人でもガラッとそうなる。
金は持つほどケチになるというのもわかる。
聖天様を祈ってから毎年10倍の税金を三年連続して収めた人が御礼に奉納したという灯篭があった。
御利益と思うなら師匠はもう少しいいものを奉納してもいいだろうに・・・といっていた。
ともすれば、信仰が深まるばかりか、そういう人は大きな御利益を受けるとだんだんと自分の力だと過信して逆に縁が切れるもの。
このひともだんだん傲慢になって「自分いは大日如来がついている」などと言う霊能者の言葉を信じて聖天様と縁が切れた。
終いには無茶な経営方針で刑罰までうけてしばらくして死んだ。
言っておくがこういうのは決して罰ではない。
聖天様が「そうかい、じゃあお前ひとりでやれるのだな。好きにしろ。」ともう手を引くのだと思う。
だからその御加護がなくなった結果だ。
聖天様から「辞めないでほしい」と言うのは基本ない。去るは追わない神様。
そういう人はおそらく聖天様の心からも消えるからだ。
拙寺は退会した人は理由に依らずもう再度信徒になってもらうということはない。
別に辞めたのが不愉快だからとかではない。
色々事情はあろうがそれは「もう縁が切れたな」と感じるからだ。
私が再度受け入れたところで縁が切れればなにも変わらない。
受け入れても同じ結果となる。
それが聖天様と言う存在だ。ゆえに天尊の縁は得難い、
故に興教大師は聖天尊との縁をして聖天講式に「機縁の至り感涙おさえがたし」といわれた。
関東の人は聖天様の存在を知らなかったと言う人も多いが、関西の聖天さまのメッカ。生駒山などに行くと驚くような額の奉納を記した石碑がずらずら今もたっている。
どういうご利益を頂いたのかはわからないが。
だが、さすが聖天信仰が馴染んだ関西の信者は聖天様の付き合い方を知っていると思う。