金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

信心が足らないってどういうこと?

よく新興宗教などではなかなか祈願がうまくいかないで幹部の人にそれを相談したりすると「アンタの信心が足らないからダメなんだ!」などと怒られこともよくあるようです。
新興宗教でなくても宗教である以上は信心必要不可欠ですが、でもそうやって怒っている人は信心が解っているのかな?と思ってしまいます。
なぜなら「信心が足らない」のを怒っても仕方ないのにと思うからです。
信じるということは強制されてもできません。人間信じられないものは信じられません。そうですよね。

でも宗教の場合はこの信じるというのは宇宙人を信じるとか、ヒマラヤの雪男を信じるようなものとは少し違います。
いいかえれば「ゆだねる」
もっというなら「ガードしない」ことです。
当院は講員制度でハッキリ言って敷居が高いですね。
とりわけ込み入った難問などは講員以外は祈願しません。ところがそういう込み入った難しい問題だからこそ拝んでもらいたい。打つ手がないから頼んでいるんじゃないかということなんでしょうね。
そうでなきゃあったこともない見ず知らずの人が相談にここまで来ないでしょう。
それは重々わかっています。
じゃあなぜ講員限定なんてケチなこと言うの?
理由は色々あるけどそれはまずこの「ガード」を一挙にとりはらうためです。
祈願の成否はまず「ゆだねる」ができるかできないかです。
祈願はしてほしいけど信者になりたくない。
何故でしょう?
信頼できないから?(これ論外です。お帰り下さい。)
お金がかかると困るから?(お金で買えるものと買えないものがあります。)
宗教なんてかかわりたくない?(宗教を信じるのは知性の足らない人ですか?)
これは命を助けてほしいと言いながら体は向こうで手だけだしているのと似た状態です。助けてほしいけどこちらから近づくのは嫌なのですね。
でも、それでは助かるものも助からないと思う。
要するに「受け入れない」ということは祈願しても機能しないのです。
魔法やなんかじゃないので。
密教では「三力冥合」といいます。
祈願する人の功徳、祈願する本尊の加持力、その他のあらゆる要素です。行者さんは祈願者から見ればこの「その他」ですね。行者から見れば祈願者はその他です。
此れが合わさって祈願は成就するということになっています。
だから本人にもやってもらうことがあるのです。
「貴方も参加してください。」ということです。
それを形にしたのが「講員制度」ということ。
受け入れないならいくら祈願しても無駄ですよと云うことです。
それが「信心」です。かたちじゃありません。
だから人生や命を左右する難しい祈願などする場合には一歩踏み込んで「信徒になれますか?」と「覚悟」のほどを聞いています。
もっともはじめからどんなものか解らないから信者になんかなれるか!というのもなるほどですね。
いきなり「信者になりたい」という方にはまず来てごらんなさいよと言っています。
肌で感じてやって良ければやればいいし、嫌ならやめておけばいい。それだけです。
拝んでくれるところなんてよそにも沢山あるでしょうからね。
いやなら嫌で全くオーケーなんです。お引止めは一切しませんからトットと余所へ行きましょう。
ましてや私は稀代の行者でもなければ、超能力者でもなんでもありません。至って凡僧です。代わりなんていっぱいいます。

なかにはよほど困っているのか、もう闇雲によくわからないでいて「信者にさえなればいいんでしょ」という人もいます。此れも考え物です。
信者になれば助かると勝手に思い込んでいてもう普通に考えられない状態。危険な状態です。こういう人ってなんかの拍子に「これはいい!」と思うともうそれしか頭になくなるタイプです。
それでいて「私って霊感あるから解るの」とかいっています。・・・わかるもんですか!こういう人は講員になっておいて「うちに大祭の御札とかってのが来てますけど、これは頼んでいませんよ。」と云うようなこと言います。
万事こういう具合で人の話は聞いてません。
大概そういう人は焦りまくって何かしら方々いって信仰していますから「うちくるより今のそれを続けてやりなさいよ。」といってお帰しします。
たとえ形の上で信徒になったって自分は参加しない。全て「丸投げ」のこの考えが同じなら所詮はすべてムダですから。当院の信心はそういうものです。

「信者になんかなったらずっとお寺とかかわらないといけないじゃないか。問題が解決したらお寺なんかに用は無いのに。」とハッキリ言う人がいます。わかりやすいですね。
大変正直で結構です。
本当はこう思う人は少なくないと思うのですね。
でも、向こうが関わりたくないという人とは私も関わりたくない。お互い様です。目的志向でやむを得ず嫌々来ている人なんて気分悪いから来てほしくないです。
第一こんな人を真剣に拝んであげる気になんて全然なれません。
「やなこった!」
中には「信仰なんてしてたら社会的に変だと思われるからこっそりとお願いしたい。」というさらにゴリッパな意見を言う人もいます。
それでもってアンタ拝んでもらいたいとはおっしゃるのですか?フシギやね。

私は信仰を強制するのは大嫌いです。信仰なんて強制しても無意味ですから。講員になったって本尊と繋がれないなら無意味です。
あからさまに「つきあいで講員になる」という方もいました。「宗教は付き合いでするものではないですから結構でございます。」とお断りしています。
そういうことできてもらっても有難いとは思いません。どうせそういう人は続きません。
だから講員になるのも強要はしない。ならないとダメとは言わない。
難しいご祈祷の話が出ないなら講員の話すらも別にしません。
講員になるから助かる、助からないじゃなくて、本当はこの人の祈願、果たしてこちらが引き受けるだけのの準備段階が出来ている出来てないの線引きなのです。

だから信仰は強要しても無意味です。
御利益は皆さんが各々自分の心で受け取るものです。
それには仏さまを受け入れられるのかどうか。それだけです。他に何もないのです。