金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

出で入る息は飯縄明神

神道伝授第二会が終わりました。
今回はこの体が宮であり息こそが神の働きというような説明がありました。
「父母生る我が身は神の社にて出で入る息は飯縄明神」rという神歌が飯縄信仰にはあります。
此れもまったくそういうことでしょう。
習合神道の思想は面白い。大好きですね。
今回、御流神道と唯一神道を学んでいますが、御流神道は嵯峨天皇様から神道が弘法大師に伝えられた事にちなんで御流というらしい。
勿論伝説でしょうけど。
雲伝神道も以前、伝授と神道灌頂を受けさせていただきましたが、雲伝は仏教系ではあってもこちらは形態的には神仏習合ではない神道です。
唯一神道は「いわゆる神本仏迹説」だというのです。つまり神は仏の本地という常の本地垂迹説と逆の考えです。
でも仏家では敢えてこの「神本仏迹説」を背景にした唯一神道を取り入れた傾向が多分に見られます。
三井寺の文献も唯一神道のものが多い。
管見の及ぶ範囲ではいわゆる山王神道ではないですね。
唯一神道は弘法、伝教、慈覚、智証の四大師も系譜にのるというそうです。これも伝説ですが、そういう説もあるので三井寺の神道が唯一神道の系統であったとしてもあながち変でもないですね。
でも、そういう神本仏迹思想が受け入れられるには学者が言うようにどっちが本という点にこだわるのではなく、神仏平等という観念が底辺にあったはずだと思います。つまり仏が本という考えがあるのと同様に神が本でも構わない。
「神がもとというのが神道である」程度の違いでしかなかったのでは・・・。
優劣ではなくおもてが仏なのか、神なのかだけのちがい。そういう認識があったのではないかということです。

たとえば飯縄明神はその祭文では根本大日如来の正体であるといいます。
つまり鷲のくちばしで羽が生えて狐に乗り蛇を纏う姿が大日如来の真実そうだというのです。これは自然即大日の考え。
修験灌頂にも同じ思想がある。実は神が先とか仏が後とかじゃなく、仏像で表現しきれないものがある。
表現の枠が越えられて神でも仏でも無い第三の存在。
権現とか明神はそうして生まれたと私は考えています。
例えば三輪大明神はオオナムチノミコト、でもこれは神道に訳せばそうだということです。三輪明神は三輪明神でしかない。
同じオオナムチノミコトでもほかの明神とは違うのです。そこには個性がある。
山王も金毘羅も同じオオモノヌシという神祇だけどそれは神道的に考えればというだけのこと。明神、権現としてはその性格は各々が個性的です。
神祇としての神道、本地仏としての仏道、明神、権現としての習合思想。
この三つは三位一体的存在ではあれ厳密には区別されるべきだと思います。
今の習合思想の研究家は神か仏かでしか分けていない。
そうじゃなくて、○○明神や○○権現と云った習合神そのものに注目しなくてはいけないのではないのかと思うのです。
 
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三井寺観音堂下の長等神社です。神仏習合的に本地の仏像も境内にお祀りされている珍しい神社です。
主祭神はスサノオノミコト。ほかにも八幡様やイキチシマヒメノミコトという御祭神も。
兼ねて三井寺の山王信仰の中心でもありました。
紅葉が燃えるようにきれいです。大津は観光にいいとこ沢山あるのに皆によく知られていないんですね。三井寺も紅葉もとってもいいんですよ!
そして春は桜です。

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.宿泊は長等神社の参道の植木屋さん。15代続いているのだそうです。
昔からお世話になっていますが一番最初に「植木屋に宿取ってあるので泊りなさい。」と本山で言われた時には驚いた。屋号と知らないから「エ、植木屋に泊まるの?だって植木屋さんでしょうが・・・・??」でした。
お料理旅館ではありませんので決して美味大膳ではありませんが、お食事がとてもおいしいこじんまりとしたよいお宿ですよ。
観光シーズンで京都が埋まっている時も楽々宿泊できます。
ここは知る人ぞ知る穴場中の穴場です。
但し、門限は10時厳守!
次回も泊りはここ「植木屋」です。