飯縄さまと北斗星とのもう一つのかかわりは道教です。
仏教に北斗七星の信仰が入ったのも道教との習合によるところが大きいと言います。
インドでも宿曜経をはじめ星辰信仰や星占いの経典が多く成立しました。
併しながら。九曜星や27宿は説かれていても、そこには北斗七星への信仰はまだ見られません。
北斗七星への信仰は唐代密教が道教から頂いたものでしょう。
中国では北極星を皇帝とします。北斗七星はそれを巡る臣下の星でした。
日本でも天皇は金輪仏頂や北斗七星の本地七仏薬師にたとえてご祈祷がされました。
しかし、密教の出来た七世紀のインドには諸王がひしめいて分裂し、全インドを統一した皇帝はいません。ですからこれはインドの発想ではないのです。
江戸時代戸隠山(飯縄山も山系に含む)の別当天台僧・乗因さんは道徳経を読み、「霊崇一実神道」を立てましたが、慈眼大師天海大僧正から邪義とされ破却され、乗因さんは流罪となりました。
もっとも、山王神道は唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、比叡山の守護神山王権現を勧請して信仰する神道ですから、亜流として先祖帰りしたこういう流れが出ても道教的な伏線はなかったわけではないでしょう。
また山王七社はとりわけ北斗七星と密接に習合して信仰されておりました。
戸隠山系が道教と道教思想があったのは江戸時代にはじまることではないのです。
その昔、朝鮮道教が日本にわたり、日本の神祇信仰や仏教と習合して修験道ができました。
しかし半島から近い日本海側には比較的道教的傾向が強く残ったものと思います。
例えば日本で最大を表す数は八です。八百万といいますね。
ヤマタノオロチはきわめて多くの頭を持った大蛇です。
これに対して白山や戸隠には九頭竜信仰があります。
九は道教系の最高数です。九天とか九星と言うのもそうです。
さらに古いスタイルの飯縄法の行者とおぼしき三尺坊と言う行者さんがいました。
越後の方です。戸隠のすぐ北は越後で隣国です。
彼は八千枚の護摩修行(護摩木を八千本焚く)をして迦楼羅身に変化しました。
お姿は飯縄さんそっくりですが実際に混同されていますが、三尺坊さんは元が修験者ですから兜巾をつけ、結袈裟をかけます。
三尺坊さんは狐に乗って全国を飛び回り、衆生救済を施して、駿河の秋葉山に落ち着いて秋葉大権現となりました。このため越後側では三尺坊権現と言います。
この方はお母さまが北斗七星が口から体内にに入って生まれた夢を見たという。
この人は三尺坊に住んでいたので三尺坊と名乗ったと言いますが、三尺と言えば1メートル弱でそんな小さなお堂はありませんし、あっても人は住めません。
でも私の知る天狗法の壇はとても小さなものとされています。
天狗は小さくなれるからでしょうか?
飯縄さんのお使い管狐も竹筒に入るとされていました。
一説には三尺坊さんは地上を浮くように三尺飛び上がれたと言います。
軽身功という身軽になる気功もあるので、これも一種の気功だったのではないかと思います。
気功はもともと道教の修行法でした。