金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

内なる観音に祈る

密教の考えは我々と仏は端的にいえば別物ではないということです。
だから外に向かって祈るのではなく本当はうちに向かって祈るのです。
仏像はその仏様のイメージを伝えてくれる大切なものです。だから本当の仏のように扱う。
だけど本当の仏は我々の側にあるのです。
だから自分に向かって祈るのもありなのです。
自分という観音様に向かって「○○さん。これを叶えて下さい。お願いします。」「わかりました。叶えましょう。叶えましょう。」
パラノイアみたいだけどこれでもいいのです。
この○○は当然自分のお名前です。「○○観音」でもいいのです。
大事なことはその結果が良くても慢心しないこと。
不思議は奥の奥なる自分と仏の不可分の世界から来るのです。
此処で大事なのは自分を抜いてしまわないこと。
自分に頼めないことなんて神仏にも頼めません。
何故ならそれを受け取る許可を自分自身が出していないからです。
私は神仏は実体のあるもので心の影だとか潜在意識が作った別な自分だなどとは考えません。
「内なる仏」などというとそういう風なイメージかも知れませんね。
でも、ここで申し上げているのは私というものが先ず中心で仏はそこから派生したものという考えではないのです。
そういう区別は本当はないのです。

だから、せっかくそこまで神仏の恵みが来ても受け取らない自分があっては何にもならないのです。
元々自分が頼んだことですから神仏は無理やり受け取れとは言いません。

自分と仏の境界が無くなる。これこそ即身成仏です。
それには自分と仏の心がピッタリでないといけない。
密教修法でやっていることも結局はそういうことなのです。

仏の望むものと自分の望むものが一つでないと祈願は叶いません。
だからとても仏の願いとは言えないような願いは受けられません。
仏の誓願に本来ないものは如何に祈っても感応しないのです。
故に祈願内容によってはお断りすることもあるのですが、これは私がケチだからじゃないのです。(笑)
元より叶わないと思うものは受けられないからです。

そういう意味での叶う、叶わないは祈らずとも判ります。

たとえ密教の行者でも仏の誓願からはみ出してしまえば成就はありません。祈祷の原則である加持の世界から離れてしまうからです。
そこを無理やり推し進めれば今度は別なものが関わってきます。
関わってはならない者共です。
世間でも道ならぬことをしようとすればそういう道ならぬ人たちに頼むほかないでしょう。でも結果は良くないに決まっています。
その後もそういう輩とお付き合いするようになりますからね・・・。