金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

よろしくおねがいします

こんばんわ。今回から登場した小行者こと久高悠照のコーナーです。今はさるお山の観音堂におります。12月には帰参奉職しますので、皆さまにお目にかかれると思います。楽しみにしております。どうぞよろしくお願いします。色々勝手を書きますがご勘弁くださいませ。(羽田です。時々茶々入れるかも。茶話ですから。)

私「悠照」が金翅鳥院、当時は大慈光教会でしたが初めて参ったのは今から18年前1998年の事でした。程なくして羽田守快住職の下で僧侶としての修行に入りました。その後、娑婆での仕事をしたり本山三井寺での修行を経る中その間も様々な困難辛苦がありましたが、その中にあって気づいた事があります。
それは結局この世の出来事、人の生はなる様にしかならないという事です。(あんた、のっけからきついこと言うね )
そもそも人は自分が生まれる場所も時代も選べません。
実際のところ脈々と受け継いだ遺伝子、幼児期の生活環境によってあらかたの人生の方向性は決定されている訳です。
人生において個人の努力や意思によって変えられる部分はごく細部であって、大まかな流れは、その因縁や業によって決定されているものと思われます。
だからと言って努力は無意味だとは言いません。
しかしその努力は、自らが望んだ形で結実するとは限りません。
思ってもない形で、その努力は報われる事があります。
その定められた自らの運命の中で、自分自身が納得のいく人生を生きるべきです。
他者の人生と比較したり世間一般の価値基準に照らして自らを貶めるのをやめる事です。
どのみち有限の命です。いつかは皆死にます。すべて失います。
不変なものはありません。すべて変化します。
だからといって悲観して生きる事やニヒリストになれと仏教では言っているわけではありません。
力を抜いて楽に生きるようすすめているわけです。
空也上人の和歌で「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かぶせもあれ」
とあるように力んでジタバタともがくからこそ水に沈むのであって、諦めて流れに身を任せれば自然と浮かび上がり、その川の流れに自然と乗ることが出来るわけです。
仏教ではその方法論として、密教と座禅があります。
座禅はともかく密教は在家では修めることが出来ませんが、密教の核である念誦は在家でも行うことが可能です。
念誦作法に関しては、羽田守快住職著 学研 天台密教の本に詳細に書かれているので是非読んでみて下さい。
このような法は、直ぐに功徳をその身に体得出来る物ではありませんが、地道に気長に毎日継続することで必ずその功徳を体現出来る物と思います。
その変化は子供の身長が日々伸びるが如く、明確に実感出来るものではありませんが、私自身が実践した結果、その功徳があるものとしてここに記す次第であります。(だそうです。はい。)