金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

生霊



昨日の夜はあるお弟子さんと生霊の話してました。
生霊は自然に意識しないで送る人います。敏感な人は受けて苦しむ。
彼は壇で修法しようとしたとたん、相手の顔が見えた。
それで「ああ、そうなんだ。コイツだ。」ということで、なんか彼なりに手を打ってスッキリしたらしい。意念の使い方がわかれば神使も使えるので、寝てていても生霊は防げる。その辺は彼もわかっているらしい。
わかってしまえばどうということもないけどここしばらくは何となく不調だったので、体の不調と思っていたらしいのです。

「先生はそういうの無いですか?」と聞かれましたが「誤解を恐れずいうとね。私は人間が冷たいんで受けにくいんだわ。」と答えておきました。
でも昔はいっぱいあった。
あんまりあるんでなんとかしないと…と思ったわけです。
冷たいというのはその方がわかりやすいと思うからそういう表現したのですけど・・・・諦観といっていいかどうか・・・私がどうせ人を全部は助け切らんのだしと思っていますし、自分一人は騒いだところでまったく何もできないのだと思っているのでそういう悩みはあまりないんです。
色々な物事が思うに任せずにただ過ぎていく・・・セレンゲティ動物保護区でライオンに子狐とられた野狐みたいにただ成すすべもなく立ち尽くすほかない。そういうようなことだってあるのですから。人生は。
生霊もらうには接点が必要なわけです。そいつがないならもらいようがない。原理的にはそういうことです。
生霊は悪意がある存在とは限らない。良くも悪くもなんか訴えたければ来るわけです。
これは止められません。
もっとわかりやすく言えばこれを相手にしない。自分の心に相手を置かないのです。
すべて本尊任せ。丸投げ。拝んでいるとき以外は考えない。
そうすると拝んでいるとき以外は相手は自分の宇宙からもいなくなる。
拝んだら四六時中グズグズ心配したりしません。
私の仕事は拝むこと。
拝む以外何もできないのですから、そんなに心配ならまた壇に上って拝んだ方がいいのです。実際、そういう時はそうしています。
それは勝手に拝むのだから祈祷料はもらえないし、そんな話もこちらからしませんけどね。
昔、知り合いの知り合いである行者が私を試しに呪詛してみたそうです。
そんなことはこちらは知りません。
でもなんにもない。
彼の術が利くと利かないじゃなく同じ空間にいないんです。
「なに、呪詛するだと?やり返してやる!」なんてことすると受けます。
だから呪詛するには接点がいる。
詳しく知りたければフレイザーの「金枝編」を読んでください。
岩波文庫でもあったと思う。
大学時代、文化人類学者の佐々木宏幹先生が教えてくれた面白い本です。
佐々木先生はフィールドワークで呪術の現場いっぱい知っていたようです。

原理はご祈祷も一緒です。受け手が必要です。だから信仰しない、信者にはならないよという人はやらないんです。
「絶対に電話してね。」といってもかければ出ない。「必ず、メールくださいね。」というくせに一切返してこない。そういう人と同じです。
誰も出ない電話したって意味ないでしょう。当然です。
電話は両方に電話機があるからつながるんですよね。
なければどうです?脅迫電話だろうが懸賞の当選電話だろうが来ようがないでしょう。
相手がいくら性能のいいスマホ使おうが届きません。

たとえば「俺はそんなのなくても術をかけられる。」というのもすでに術をかけようとしているんですね。
「あ、ここは気が悪い!」だの「あ、・・・そこに霊がいる」とか四六時中言っている方はかかってもいない電話を今か今かと待ち構えているようなもの。
こういう人は自分で優れた霊感があると自負しているからアンテナはもう下せないんですね。よそにかかっている電話までとるような感じ。
それで「私、霊的にもっと強くなりたいんです。」「…無理です」
「私って霊感が強いんで行者さんになりたいんです。」「もっと無理です」
行者は化け物が目の前にいても「ヨォ!」てなもんでないと。
鈍感になれないと無理。
いろんな意味で鈍感になることが大事。
研ぎ澄まされた刃みたいのはパキンと折れてしまいます。真逆です。

私は拝むにはよく拝む方だと思うのですが違う表現すると、そういうとこに悩まないことにしているんですね。キリ無いから。
悩まないほどに自信があって安定しているのではなく、逆です。
悩んでも無駄だと思っているわけです。
だから助けて・・・といってきても助かりそうならなんかしらするけど、そうではないのは、あえて無理はしないので生霊もあまり受けないのです。
生霊でなくても、生きている人間にだってそういう風。
エ、それは冷たくないですかって・・・?
だからそういっているでしょうに。冷たい人間ですって。
でもですね。私にしてみれば冷たいのじゃなくて身の程をわきまえているつもり。それだけです。

あえて受けてみても困る人間が一人から二人になるだけなんで・・・・それ意味ないでしょう。