金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

武神のこころ

いつも言うように私は霊能者ではないのですが、ごくまれに一方的に何か伝えられることはあります。
そういう時は相手も霊的な側面の理解者であることが多い。
こんな人にこれ言ってもわからないかもと思えばそこはなにも来ません。そういうことだと思う。
昨日の相談はある方の退職のお話。ながらく要職にあったのですが社長が辞めることを、深く恨んでSNSでさんざ誹謗中傷しているようです。そこで困って一応、弁護士にも相談に行った。
その弁護士さんあての手紙を見せてもらいました。
でも文面見たとたんに飯縄様は「もうやめよ。手打ちにせよ。」といわれる。
当の社長さんは捨てられた感があるんでしょうね。ヴィジョン心理学でいう💛ブレイクです。
だから相手をすべての面で悪者にしないと、捨てられたことが理不尽だということにならない。
自分が悪者になりたくない。
先方の言い分に正当性があるのかも・・・と考えるのが耐えられない。考えることの拒否です。
しかしながら、もう、長く務めたところだし、多少なりともこちらも恩もあるのですから、エスカレートしないように話し合って「もう争いはやめましょう」でいいのでは…と申し上げました。
幸いご本人もそれを望まれていました。
ある種の行者さんですと「ウ~ム、ではさっそく祈願して、完膚なきまでにやっつけましょう!」ということで調伏護摩たくとかいうことになるかも。
失礼ながらこれは未熟者の考えです。
愚か者とさえいってもよい。

飯縄様や摩利支天様というのは武の神ですね。
戦国時代にはほかにも毘沙門天や妙見尊、愛染。不動などが軍神として信仰されました。
でも神仏ですから争うのが大好きなわけじゃない。
むしろ全く逆で戦いの守護神とはまず極力戦いにならぬようにする。
たとえ戦が起きても戦いの被害が少なくなるように考える。
速やかな和睦に導いて天下を平定する。
これが役目でしょう。
武神の加護や導きを得る。
其れには何よりも「憎しみ」に基づいてものを考え処理してはならないのです。
憎しみは措いて未来のためになにが大事なのかを考える。

時代が時代で戦は避けられない時代としてもこの心なくして武神の守護はあり得ないと思います。
今は戦国の世ではありませんが、命のやりとりはないものの戦い自体は絶えず我々のそばに7あります。
戦ともなれば多少の言い分はどちらにもあります。そこは国でも個人でも一緒です。
それをあくまで言い立てていては戦はいつまでもやみません。
痛みわけの心が必要です。
自分の言い分が正しいからと言って徹底的にうちのめそうとしてはおさまらない。完全勝利はあえてめざさない。
昔から武田信玄のような戦上手は6分の勝ちでよいのだといいます。
徳川家康も勝つ事のみを知りて負けることを知らなければ災いその身に至ると言っていますね。
人生の戦いもこの辺で…が大事でしょう。
武とは戈を止めると書いて「武」。
戈とはホコのこと。つまり戦戈を収めること、平和を望むことが武の本義なのです。
この心なくして武とはいえません。