金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

自虐

昨日の動物虐待の話に関連して思うのは、優しい思いは大事ですが…いちばん優しくしないといけない対象は自分です。
自分は犠牲にしちゃ駄目です。
自虐的な人は攻撃性は強いですね。自分にまず優しくない。
よく笑う明るい人はまずいない。
笑いの少ない人は自虐性が隠れている可能性がある。
動物や子供や弱者をいじめる。これ自虐的人間です。
弱者には慈悲をかけずとても強く出る。
弱いことは悪いことだからいいんだね。
でもそういう意地の悪い人は弱い奴だね。負け犬根性です。
自分を攻撃しているくらいだから人や動物もしていいと言う構造が隠れているのかも。
他人を攻撃するには自分を責めないといけない。
自分が今までひどい目に遭ってきたのをバランスとるために他を傷つけます。
そうじゃないとタメではないから。バランス崩れて正義じゃなくなると困る。不合理になる。
こういなにかを傷つける。恨む。そねむには「幸せ」に成っちゃいけないんですね。
だから怒鳴りまくったりした後、嫌な気持ちに堕ちてしまう人もいる。
決して晴れ晴れしない。
大したことでもないのに感情が激昂して文句言いながら泣く女性なんかそういう人が多いですね。
その一事に今まで起きてきた嫌なこと辛いこと全部てんこ盛りに盛り込んでぶつけるからそうなる。
でも、あなた、それお門違いのリベンジですよ。
ご本人の中では、いつも、いつも、いつも!被害者は私なんですね。

幸福になるといままでの自分は不幸なんだ。かわいそうなんだ。と思ってきたのは嘘ということになるので。
「あいつにこんなことしてやった!」「こういってやった!」と意地悪や虐待自慢しているバカはどれだけ自分が傷ついてきたかをアッピールしているんだわ。絶対にそう思う。


人間は正義から離れられない。
だから泥棒でも人殺しでも性犯罪でも捕まるとなんだかんだで正当化する。
それが証拠に弁護士という仕事まである。
ようは容疑者の正義を言い立てる仕事です。
良くないことして正当化する人は前に進むのを拒否していますから、治らない。悪い癖も一緒。
何か指摘されてすぐ反発する。よくならない。
なぜなら自己の現状の味方だからです。
進んだら前の自分が間違っていることになるから・・・。
だから、改善拒否。今のままでオーケーという心理。
リストカットする人は自分を憎んでいる。でも他人は憎んでいないかというと本当は他人をもっともっと憎んでいる。
だから人生の不満を何か言わせれば堰を切ったように怒りを噴出させます。
そしてその状況とかかわっている自分も憎んでいるんですね。
自分を傷つけるのは自分を離れられるから一時的にはラクなんです。
私は私じゃない。だって私は私を斬ったりしない。「するわけないじゃん」という構造です。だから今カットしているのも自分じゃないんだ・・・という分離した思い。
だから切ることは実は自己意識を斬る。
こういう考えは間違っている宗教的な観念にもある。
無我を求める。
結局断食したりしながら死んじゃう。
ああ、意識がもうろうとしてきてやっと自分から離れられる。
やっと嫌な大嫌いな自分がなくなる。
これ逃避です。無我じゃない。無我は自分が拡大すること。死んでいくことじゃない。
十字架のキリスト様。本当はあれも同じ意味だと思う。
そうではなく同じようにエライ目にあって受難しないとキリストに申し訳ないというのは自虐です。
それじゃイエス・キリストが十字架についた意味がない。
罪の持ち回りです。
そういう人には本当は世間の人を責める構造がある。人を責めるために受難する。それ、意味ないね。
 幸せになるならそれ辞めないと無理です。
因縁の連鎖、カルマの連鎖はまずそういう観念の連鎖です。