金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

菩提心と無我

この前に「無我になる必要がない」というお話をしました。
この話もう少し掘り下げましょう。例えば、無我になる必要がないなら座禅して無我の境になるのは無意味なのでしょうか?
無我になる必要はありませんがそういう体験をするということ自体は修行の上では貴重です。
決してそれを否定するものではありません。
しかし、忘れてならないのはそういう体験をしたからはじめて無我だということではない。大乗仏教は認識論的にもともとどうであれ空なのです。
ちなみに上座部は物理としての空です。違うのです。
深い瞑想状態、これは生理学的には上部のアルファー波やシータ波が出ている状態ですが、無我の体験そのものは生理現象であり、その域を出るものではないのです。物理的には何の変化もない肉体のままです。
別にどうなるものでもない。
大事なのはそこから何が持って帰れるのか?ということです。
ましてやただ無我というだけなら睡眠や気絶していたりするのとさして変わらない。
だからそこに無上の価値をおいて止まっても無意味だということです。
ききかじりですが上座部でも釈尊も瞑想が深ければ深いほどいいのだとは言われていない。
少し下がったところから解脱されたと伝承されているそうです。
何も認識がなくなるのはいわゆる滅尽定で必ずしも良いわけではない。
そういう無我の状態になんかならなくても真言念誦やお掃除をしていたって小さい悟りは訪れるのです。
それはどうしたら・・・
簡単なこと。求めるか否かだけです。
つまり「菩提心」以外ありません。
毎日体験している睡眠はいわば無我です。でも悟らない。菩提心がないから。
でも菩提心熾盛であれば夢も時として悟りの機縁になり得ましょう。

植物や微生物も無我でしょうが悟らない。これも同じことです。
菩提心がないから悟らない。
よくいわれる石の成仏や草木成仏は悟ったものから見た見方。
覚者の「境涯」の話です。
花は紅、柳は緑が悟道の心境と一緒。
瞑想の深い状態を喜ぶ。それはそれでいいけど、仏教的に言えばそこはまだ目的じゃない。
そこで止まれば失菩提心で仏教にはなりません。
ちょうど修験道で「俺なんかなんとか山に100回上った」とか山登りの数だけ威張る人みたいなもの。
そこに知恵の働きがなにも生まれなければ、サルや熊の方がよほど山には長いこといますから彼らの方が偉いということでしょう。

仏道は方法論に堕してはならず、菩提心を忘れないことです。
これは座禅でも念誦で作務で同じことなのだと思う。

最後に「ごめんなさい」と言っておきます。
私如きものが口幅ったい、偉そうなこと言って誠に申し訳ない限りですが、実はこれ自分に対して日ごろ言っていることをご紹介しただけです。 

もしも何かとるところあればとり、下らぬと思えば捨ておいてください。