金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

仏と天の違いは何?

密教で仏というのは胎蔵界風に言えば仏部、蓮華部、金剛部で事相上は如来、菩薩、明王に相当します。金剛部に天部を接する考え方もありますが、一応ここまでが仏様です。
こういう方々は密教修法でやりこんで加持すれば一体感が出てくる。
例えばこの病の祈願ならばこれは治るとか治らないとかがピンとくる瞬間がある。
試験も落ちるとか落ちないとかも感じることがある。
それは本尊と入我我入しているから自然とそういうことも感じるわけでサイキック能力とかじゃないんですね。
すなわちこれが三密加持です。
だからサイキックじゃないので拝まないと全然わかりません。
霊視してくれなんて言われても全くわからない。

それが「三密加持」なんですが、天部は仏菩薩に比べるとそれを感じるのが難しい部分がある。
観音様やお不動様などだと拝みこめば自然と首尾は感じられることも少なくはない。
だけど聖天様なんかだとわからない。
何かむこうがあえて「だめだぞ」とか「こうだぞ」と意思表示してきた場合はわかるけど、そうでないと仏、菩薩のようにはストレートにはなかなか染み渡ってこない。
だからこそ、そこはむしろタカをくくったり、かといって無暗に心配せず、ひたすら修法するしかないのが天部の修法です。
そういう難しさがあります。

密教的には仏はもともと我々と不可分の境界なのですが、天部は六道世界の別な生き物です。
権天と言っても形の上では仏とは違う。もしそこも同じならわざわざ権天の存在する意味はない。

修法する次第書にもよるけど天部については必ずしも入我々入をしませんので、逆を言えばすなわち供養法だけでもご納受、霊験がある。
実はそれが天部の御利益の速さでもある。
だから必ずしも修法しなくても在家の人の祈りで霊験が顕著にある。ここが人気の秘密ですね。
聖天様も拝まなくなると罰が当たるというけどそうじゃない。供養しないと天部はつながりが切れるんです。
そこが三密加持の世界なら、たとえ四六時中供養しないでも、境涯を得ればいつでもどこでも不動尊と一緒とか言うことにはなる。
一度感応すればむしろそれを維持するために祈るということが主になる。
まず感応を得る。そのためにあるのが加行というもの。そして究極には顕徳の成仏ということに至るのが理想。
天台風に言えば六根相似の位です。

天部も感応はあるにはあるけど質が違う。
おおまかにいってしまうと神祇と一緒ですね。天部は実際にはインド版の神祇ですから。
この部分を何とかできないかというので色々工夫がある。
だから基本的には本地供をたくさんして本地を介してつながるというのが一つの方法なのですね。

天部の修法は東密立てなんかだと実にあっさりしてます。結界とかもない、基本的には字輪観も用いない。それだけに難しいのだと思う。
逆に台密だと色々入れ込んでその部分を工夫する傾向がある。
まあ、やり方に違いはあるけどどちらも課題は同じことだと思うのです。