金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

諸仏や経文は悪業を消せるのか?

最近業について質問されることが多い。
人は得てして苦しいとき業に思いを馳せます。

「私が一体どんな悪いことをしたというのだろう?」という理不尽な気持ちさえ出てくる。そういうもんでしょうね。
ただ仏教において業という考え方をするとき。人はすべてを自分の責任として受け止めていこうとする利点があります。
他者のせいにしない。他者のせいにすることは楽だけど何も生まない。
人生を変えられない理由にしかならない。
だから今の自分の姿を自己一元に帰することにより修行の心、勇猛心が起きます。
だから過去の業より常に今作られつつある業こそが大事なのです。
そして業ははじめあればかならず終わりがある。
そして悪業は苦しむことによってのみ消えるわけではない。

大事なことは悪因悪果というけど悪業の報いは苦しい境涯であってそれをどこまで苦と感じるか否かは微妙に違うのです。
地獄のような環境にも「薫習」といってそれなりに慣れてしまうことはできる。
法華経の「三車火宅」の教えにはそういう状況が描かれている。
悪い業にとっぷり浸かって問題に思わないということです。
でもそれを苦と感じる心があれば抜け出すよすがにすらなる。
苦に気が付くことは実は業に気が付くことであり、仏道の第一歩です。
過去に悪いことしたからいい気味だとかいうもんじゃない。
リベンジは関係ない。
悪い業を積んだのだからひどい目に合えばいいというのは仏教思想にない。それはただの憎悪という煩悩でしかない。
なぜならひどい目にあったからといって反省し、立派な人間になると限らないからです。そこに仏教的な業の解釈が入って初めて反省になる。
これはこの業の結果というようなことも宿命通がない凡夫の身の上ではわかりません。
だから根本無明という。カルマの出発点は実はこれです。分別不可能。
特に過去世のことはこの業はこれだから消しておくというように特定することは普通はできません。霊覚のある人の言葉を信じるとかしかない。
だから悪業の報いといってもこれは天罰とかではないんですね。あくまでカルマの呼ぶ結果でしかないのです。
しかも悪因悪果とはいえ相互に作用しあうのです。そうででなければ人は他者に対してよいカルマも悪いカルマも作れない。カルマ自体が存在しえない。
そもそも他者に苦しみを与えるから悪業になり、よきものをもたらすから善果を呼ぶのだから、カルマは相互に全く断絶しているものと考えるのでは業論自体が自己崩壊するのです。
だからよき行いは業を清め、三世の諸仏はよく罪を消し去り、経文や陀羅尼はカルマの苦果を滅するのです。
ただそこに必要なのはまず菩提心であり、大悲の心です。これがなければ有難いお経もただのオウムの声マネと同じになります。
ただ、それでもまるきり無意味ではないと思う。「読誦大乗」という考え方があるから聞いたもの唱えたものは知らないでも一抹の功徳になる。

忘れてならないのは過去の業が良くも悪くも常に新しいカルマこそ最も強い存在なのだということです。
そして仏教は未来に向けての業論の展開こそ本義です。
過去に拘泥してしまうとこういう考え方がある。
あるヒンドゥーの呪法者の話。呪詛調伏をよくする。
そんなことしたら悪業ができると仏教では考えるけど、殺される業がない奴は呪っても死なないから、死ぬのは本人のカルマ、だからそこに悪いカルマはできないと考えるらしい。
これは誤った考えです。
殺される業を不発にすることこそ大事だからです。そしてそれは可能です。
それは逆に不可能だと考える。業は絶対と考えるとこうなる。
この考え方は最初の業で毛糸球を転がすようにすべてが決まる。
新しいカルマは影響しない。この考えだとカルマの働き自体に力があることを説明できない矛盾がある。
一種の運命論で仏教ではこれを「順世外道」として退けます。