金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「習う」ということ


修験道などではよく「○○を○○と習う」といいます。
たとえば「八大竜王を法華八巻と習う」などといいます。
でもこの「習う」というのはイコールではないのです。
だから「八大竜王とは実は法華経のことなんです」なんてのはまるきりわかっていない解釈です。不合格。

この考え方だと八大竜王という存在は消えて代わって八巻の法華経が残る。
一知半解の人間はやりそうだけどね。
これでは全くダメです。全然わかっちゃない!!
習うという「修験の考え方」ができないとそうなる。
まあ、それはできないのが世間の普通だろうけど・・・。
例えばこの場合、正確に言うと「八大竜王という言葉の中には法華八巻の意味を盛り込んでそう呼ぶのだ。」というのが正しい「習う」ということとと思います。
これ独特の考え方。
つまりそこに内包されてい存在は何?みたいなもんで言葉の宝探しみたいなもの。
それが習うということ。
習うということによって物はより多くの価値観を明らかにして輝かしていくことになる。
なんかが消えて何かが残る。決してそういうのじゃないんです。