金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

願海阿闍梨


大福生寺の聖天様はもともと幕末の高僧、願海阿闍梨が中山二位局(のちに一位局)の安産を聖天供と尊勝仏頂をもって祈り、明治帝のご誕生を導いたという。
その願海さんゆかりの聖天様があるということになっています。

明治帝の父君孝明天皇様と英照皇太后様の間に男子のお子はなく、中山卿の姫君、慶子さまが宮中に上がり明治帝を出産あそばされました。
ここをもって願海さんの御名は天下に知られ、のちに中山卿は聖天像二体作り妙法院におさめられたのだといいます。

大福生寺にもその願海さんにちなんだ天尊があるといいますが、しかし師匠は聖天像自体は何体かあるもののどの聖天様がそれなのかはよくわからないし、たぶん今はもうどこかに移っていてここにはないのかもしれないといっていました。
場所も日本橋蛎殻町から移っていますし色々変遷はあったようです。
当時は浴油をされていたのは金銅の天尊とそれより少し大きい銀天でした。
願海さんは回峰行者だったようです。
大和絵の絵師、冷泉為恭(タメチカ)と極めて親しかったそうです。為恭さんが願海さんの「勧発菩提心文」という所の挿絵を頼まれたことから親交が始まった。
仏画は天才肌なお方でした。
願海さんは尊勝法が得意でした。
「尊勝陀羅尼明験録」という本も書かれてさかんに尊勝陀羅尼のありがたいことを言われた。
余談ながら願海さんは尊勝陀羅尼の守護神として「尊勝大明神」というお稲荷さん?まで感得しています。荼吉尼天のような天女でも老爺のお姿でもなくて狐を連れたお童子さんです。
                   「尊勝大明ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
 
尊勝陀羅尼の宝塔の周囲に護法の神祇や諸尊が降臨する「神明仏陀降臨曼荼羅」はとても素晴らしく、これも為恭さんにかいてもらったものです。
願海さんも彼の影響で描いたのか、三井寺の塔頭にも願海さん筆の観音像を見たことがあります。残念ながらかなり傷んでおりましたが。
                尊勝曼荼羅(拙寺蔵)
イメージ 1

為恭さんは実は公家の冷泉家とは関係なく勝手にそう名乗っていたそうです。関白近衛公のおかかえ絵師ではあっても公卿ではない。
多分とてもお茶目で面白い人だったんでしょうね。
勤王派の人でしたが佐幕派の人とも平気で仲良くしていたので終には味方からスパイだと決めつけられて斬られてしまった。
願海さんはそれがショックで葛川の滝に飛び込み入定されたそうです。
何も死ななくてもいいのでは…と思うけど。
当時は同性間の恋愛も今よりオープンなことでしたので、お二人の間にはひょっとすると恋愛感情があったのかもしれません。
回峰行者も人ですから人を好きになってもおかしくないでしょう。
 
願海さんにはほかにも「聖天叢書」というのがあり、その中にはいろいろ面白い霊験譚が満載されています。
確か法曼流の相実大和尚の話だったかな。
ある祈願者が来て無理の祈祷を頼むので断ったのに、自然と叶ってお礼を言われた。
「おのれ聖天めが、ワシが断ったのに勝手に動いたな!」
和尚から見ればやはりお布施が欲しくなり思い直して拝んだと思われたのが嫌だったのでしょうか、やおら聖天像を厨子より取り出して谷に打ち捨てた。
周りの弟子たちは大騒ぎ!そんなことしたら天罰が当たると恐れました。
でも和尚は平気な顔で「大丈夫じゃ。もう帰っておるわ。」というので見に行くとちゃんと聖天様が厨子に入っていたそうです。
私も尊勝法は今の白戸住職から授かっていますので、拝まないと…まだ次第を書写してないし。