「徳育」という言葉が一時的にいわれたけど最近はもうだれもいわないですね。
そもそもその辺にゴロゴロしてる日教組の先生方がしたいのは赤い教育で徳育なんかではないですから。現場からそういう声は一過性できえていくのは当然かもしれません。
「思想信条の自由があるから」というのを逆手にとれば「道徳」という言葉だってもともと儒教の言葉なんですからそんなの摺りこんじゃダメなんわけでしょう。
だから思想としての道徳はない。ルールだけ。
ルールはどこまでも守らされるものであり、果ては意味は把握できないから「人を殺してみたかった」みたいなとんでもないバカが出る。
でもそういうわけで徳育は学校教育にはほとんど望むべくもない。
以前「教育の場にどう宗教を生かすか」というシンポジウウムがあったので聞きに行ったが気の利いた意見は一つも聞けなかった。
そもそも学校という場にそういう余地がないのだから生かしようがない。
さらにいうなら宗教とは信じている人から教わなければなんの意味もない。
学校教師なんかに教えられるしろものではない。
大昔だが、わたし自身の経験は日教組の教師から「人間は教室でこんな馬鹿な非科学なものを信じていたのだ。それというのも権力者が利用するための道具だったからだ。」という各宗教の悪口しか聞いていない。
そこまで積極的に悪く言わなくても「天照大神」と書いて「これなんてよむの?みんな。テンテルダイジン?知らないよね。こんなもの。」とふざけて見せたバカ教師もいた。(この体育教師は動物に感情はないとも教えた。貴様には脳みそがないのだろう。)
そういう教師の教育をうけた人間が成長し跋扈して「除夜の鐘は近所迷惑」などという判決を出すのだろうと思います。
そういうわけで思い出の内に尊敬できる学校教師はいない
軽蔑までしない程度の人間は多いが名前も覚えていない。(笑)
宗教でなくて人生の大事なことはすべて学外の人に教えられたと思う。
今でも懐かしく思うのはそういう人たちで学校なんか懐かしくもなんともない。同窓会も懐かしい気持ちはないから出たためしはない。
したがって体験上、宗教や道徳の教育に関しては学校の教師には今もってなんの期待もしていない。まあ、これは私の特殊事情でありますが。(笑)
学校教育が宗教に対してできることは…少なくともそれは宗教について教えることではない。
宗教の「邪魔をしないこと」だと思っています。
今日は教会に行く。今日はお寺の行事に行く。お宮の祭礼に参加する。
祥月命日で墓参に行く。
そういう日は欠席扱いにしない特例の日を設ける。
そういうことを文化として大事にする教育ですね。
ほかになにができるというのだ。
出来やしないと思います。