宗論(宗教的論議)というのを何か論議対決なもののように勘違いしている人が多いが、仏教の討論はお互いがあるべき仏法を探して行われるべきものだ。
確かにむかしは時の為政者に可否の判定を仰ぐためも公の宗論はそのようであったろうが今は違うだろう。
上から目線で教えてやるというような押しかけ論議は宗論ではないし、修行者の態度でもない。
原典的にはマハーカッサパを感服せしめた釈迦牟尼の様な在り方が理想だろう。
釈尊も偉大ならマハーカッサパもすごい人だ。
マハーカッサパも真理を求める求道者としての姿勢を失わないからこそ多くの弟子を持ちながら釈尊に弟子入りしたのだといえよう。
真理を求めないところに宗論はあったにしてもそれは醜い言い合いに終始するだけだ。