「常に我を見るを以ての故に 而も恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん 」
自我偈で釈尊がいなくならずいつもいると思うと、人々は甘えの心であえて修行せず、欲望に執着して悪道に堕ちてしまうから、涅槃に入る。つまり亡くなるのだと言います。
これについても霊狐さんから教えられました。
「これは人を頼る心。依存の心。何者にせよ偉大な覚者だ。神仏の化身だと崇め奉り、そういったものに心酔し頼り切る。それは過ちである。
依存しては修行にならぬ。おのれの中に仏を見出すのが修行だ。
いかに優れた人に会えても、その人に頼り甘え切っていれば堕落するのみ。
世間に救世主だ。生きた神だと言われるもの多し。
危ういことにこれを崇めひれ伏し追随し執着する。
これにて我は幸いなり。おおいにこと足れりとするは物言わぬ木偶を神仏を信じ礼拝するにも劣れること数十倍なり。その害、必ず身に及ぶものぞ。
このくだりはそれを教えている。」
思うにこれは必ずしも教祖様の問題ではないですね。
世の中になんの道にも偉大な人はいますが、その周囲の人々に依存だけで学びがなければ、たとえ釈尊であっても涅槃するほかに手だてはないのです。
自燈明・法燈明とこのくだりは同じことなのだと霊狐さんは言いたいのだと思います。