人間釈尊は仏伝物語では生老病死の四苦を解決を志し王宮を去られたという。
最終的に当時行われていた様々な宗教的行法をも経験し釈尊が到達したのは生老病死は自然なことであり、そのままに受け入れるほかはいかなることもできないという境地にまでに至られた。
これは我々でも不可能ではない。不可能なら釈尊はそれを教えられないことだろう。
生老病死に苦しむ心の克服こそを説かれた。
簡単に言うなら執着がなければそれだけ苦しみは少ないということだと思う。
ハッキリ言うが祈祷などと言うものも生老病死自体は解決しない。
それを少し先延ばしにして考える時間を私たちに与えてくれるものでしかないだろう。
それは我々自身の心が解決する以外ないのだ。
たとえ密教の祈願によりいったん難しい病気を治すことができても死なないわけではない。
それはどんなに美容に努めても老化自体を止められないのと同じだ。
勿論、無意味ではない。意味はおおいにある。
だが絶対限界もある。
しかしながら釈尊はそのために人生を感情を殺して木石の様に無感情に勤めよといわれた人だったのかというとそうではない。
目連が外道に打ち殺され、舎利弗も相次いで亡くなると、釈尊はおおいに嘆息し「舎利弗、目蓮のいない説法の座はとても虚しく感じられる」と親しい弟子が亡くなったことを嘆かれたという。
だから悲しみにとらわれて心が膠着してはならないが悲しんではいけないということではない。
若し全然悲しまないならそれはただの異常者だ。
同じように怒りにとらわれた言動はいけないが不正に対する怒り自体は必要だ。
楽しみにおぼれてはいけないが楽しみや喜び自体を一切合切、捨て去らねばいけないことが釈尊の教えではない。
そこを勘違いするとただ自己のメンタルを防御するだけの世捨て人となる。
たとえば山奥に隠れ瞑想三昧とかは人生の一時期は良くても人生の目的とするところではない。
瞑想により脳の中からドーパミンを沢山出せるようになって深い悦楽の三昧を作り出せても面白かろうがそういうことは釈尊の教えでない。
昔、喜怒哀楽自体があってもそれは普通の人は砂の上にも字を書くようなものだ。
執着の強い人は岩に彫り付けるようなもの。
だが賢者は水にも字を書くようにすぐに消え去ると聞かされたおぼえがある。
そういうことだと思う。
楽園を求めず、無上楽にも耽溺せず、生老病死のままに影響を受けないことを大切にする考えはのちに無住所涅槃という涅槃のありかたの提示につながっていく。