仏典には時々おどろくような記述がある。
妻子眷属悉く布施するというような記述だ。
釈尊は淫欲を異常なほど嫌われた方ゆえ人様の奥方などに用はない。これはたぶん一門あげて帰依するようなことを言うのだろう。
まあ、それはともかく、浴油最終日、お手伝いに来てくれたお弟子さんが早くから来て外陣でお経を読んでいる。
非常に恭しく読んでいるなあ。と思ったら・・・
「あれは本当の心ではない。本当の顔が自分でもわからくなったものの読経だ。
かの者は家の者にはあのような心使いもせず定めし極めて横柄であろうぞ。改めさせよ!」との声。
聖天尊が直接声をあげられることはほとんどない。
おそらく初めて。
聖天様だけでなく神仏からお声を頂くことなど私ごとき者には滅多ない。
神と人を結ぶ巫覡や霊媒師の能力もない。
だから普段は梓霊狐や狐衆のお世話になるのがせいぜいだ。
天狐さまですら通訳されないと全くわけわからん。図形でしゃべるから。
尊天はと言えばいつも、ものはいわず強烈な視線を感じて、それが「何を意味するか分かるだろう」というような「なぞかけ」をされる。
ジーっと細い象眼での視線は感じる。無言の圧力だ。
黙ってただみている厳しい上司のようできわめて恐ろしい感じだ。
だが今回は直に声が聞こえた感じ。第三者のことだからだろうか。
ほぼはじめて。
私は聖天様は御夫婦と言う認識があるせいか、その声は男女重ねて・・・・不謹慎な表現かもしれないが判りやすく言えば永井豪先生のロボットアニメ「マジンガーℤ」の「あしゅら男爵」のような感じ。
いつも言うように「修行だ」など言って出かけても家の者には修行だろうがパチンコだろうが釣りに行こうが変わらないのだ。どちらにせよ家にいないというだけのことだ。
だからそれで家族に納得されているとか許されていると思っては違うのだと思う。
母の部下だった坂下氏も昨日、郷里の青森に返ってしまったし、全く孤立無援の自分としてみれば毎週のように来てくれるので、極めてこの人はありがたいのだが・・・・。
とはいえ天尊のお仰せを無視はできない。
ハッキリ言って天尊は私の都合などどうでもよいというお方である。
それは梓霊狐はじめ狐衆とて同じこと。私の都合など眼中にない。誰も贔屓はない。
あるべきようにといわれるのみ。
時に困ったことになっても
「ハハ、良い修行だな。」と梓霊狐に笑われるのが関の山。
なので・・・
あえて「頻繁に来ないように。来週の日曜日は来ないでください。せいぜい家にいて家庭サービスしなさい。尊天がそう仰せだから。」といっておいた。