金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

霊狐「法の扱い」を語る

私も一応人間であるので人情にほだされて「法」を扱いそうになることもないわけではない。

せっかくだから教えてあげようかとか・・・?ここまですすんで来たのだからケチなことを言わずにとか、あるいはケチだと思われるかも知れないな・・・とか。

そういう自分は自分でも滑稽だと思うほど人間的だと思うこともある。

さらに三昧耶戒には一応「不慳法戒」というものもある。

法を惜しんで伝えないのはよろしからずという戒だ。

 

だがこれは本来インドなどではもとは逆の意味だったとも聞いている。

「請われたとて言われるまま、無暗に教えてはならない。」ということだとも聞く。

だがら・・・そんな時はいつも霊狐さんの声を聞くことを忘れぬよう問いかけている。

霊狐が前述のそういう私の気持ちや考えを支持したことは一度もないし、そこを押して行ったことは必ずロクなことにならない。

梓霊狐は

「法はお前の駆け引きの道具ではない。

人に良く思われようが思われまいがそんなこととかかわりはない。

法の価値というのは不変なのだ。

それはお前の気持ちで左右されるものなどではまったくない。

お前は預かっているだけなのだ。

授かったとて、預かったとて。おのれのものでもないのが法だ。

阿闍梨とて同じだ。

すべて仏から借りているにすぎぬ。

それがわかっているものこそがは真の阿闍梨だ。」という。

 

ゆえに一たび判断を極めて断ったものはものは1000辺繰り返し頼まれようが断固断るというのはそうことだ。

どう思われようとそこは構わない。

そういうものだと思う。

同時に大事な法を仏から預かっているという考えはしっかり認識したい。

修行者にてもその考えなき者はわがもとより去れ。