私は聖天さまを信仰しているが聖天行者ではない。
毎日真言千遍念誦して「ありがとうございます」と感謝行をしているだけである。
ただし不思議なもので聖天さんの修法する法友はたくさんいる。
聖天さまの修法を伝授して欲しいと依頼を受けることもある。
そういう方々のご縁で今があると言っても過言ではない。
さて私は30年近く前にある願いを聖天さまに祈願した。
そのため花水供を修法して祈念をこらした。
九分九厘まで成就するというところまでいったが、最後の所でひっくり返されて途方に暮れた。
ところが、捨てる神あれば拾う神ありということで、ある人から救いの手が差し伸べられて、巡り巡って今こうしてあるわけだ。
しかし、振り返るとあの時その願いが成就していれば今の私は確実になかった。
僧侶もやめていたことだろう。
当時は聖天さまにたいして恨めしい気持ちがあったが、つくづく成就しなくて良かったなぁという気持ちと聖天さまは偉大だなぁと感じるのである。
捨てる神も、拾う神も共に実は拾う神だったのだ。
生駒山宝山寺を開いた湛海律師は高い位の僧侶になりたくて20年で成就するようにと、まずは1000日の浴油を始めた。
しかし、途中でそんな名誉に執着するのは間違いだということに気づき、戒律を守り、不動明王の行者へと転身したのである。
その間、律師は聖天さまとは紆余曲折あったのだが、結局20年後には将軍家から祈祷を頼まれるような高僧になっていた。
聖天さまは本当に先の先の先まで見通しているのである。
これは他の神仏にも言えることだろう。
ちょっと拝んで、きかないからすぐ辞めると言うのでは永久に成就することはない。
何があっても信仰を続けていくことができるかが肝なのだ。
生駒聖天に先日参拝して前記ことを思い出し、聖天様にお礼申し上げた次第である。
感応道交 難思義