念誦をしていて神秘体験などしたり、人からそれを聞いたりするとそういう体験を大事にする気持ちが生まれる。
それ自体はいいことですがあまりそれにこだわると自分の感覚中心の行をする。
それで行が進んだと勘違いする。
それは大きな間違いです。
体感的なことも、お姿や光が見えるとか、音声が聞こえるとか・・・そういうことは一過性だからいいので、常に起これば神仏の神変ではなく魔事であるというべきでしょう。
神秘体験は一度でもすれば十分。コンヴァージョン(回心)が起これば最高。
でもなきゃ、ああ、こういうこともあるのだで十分。
それ自体がそのつどないといけないと思うのは邪道です。
「色をもって音声をもって我を求むるもの。この人は邪道を行ずる」と金剛般若経に言うとおりだと思います。
何もなくても、何かがあっても黙々と修行を続けることこそが大事です。
あとは本当は中身的に言うなら神秘体験など一回くらいあれ後はどうでもいい。