神や仏が見えるとかお声が聞こえるいう人もいる。
それはウソとは思わないが、神 仏と言われている概念の具象化と遭遇するのと「まことの神仏」と出会うのは違うことだと思います。
神や八部衆は我々と同じ衆生だから出会うことはあるかも知れない。
だが仏となるとまるで別だ。
如意宝珠を拝む功徳に「拝見仏像」という言葉がある。木や石の仏像を拝むことではない。
仏の姿を見ることをいう。
仏にまみえるというほうがただしい言い方ですね。
これは大変なことなのです。つまり応身仏と言ってその方のために出現されたのです。
普通の動物や人のように仏がその辺を歩いているのを客観視はできない。
もともと形のあるそういうものではない。
そして、それには必ず宗教的神秘現象であり、回心(conversion)を伴うものでなくてはいけません。
つまり大きな宗教的境地を開くもの。
ただ霊感でいう見えるとか聞こえるのようにそういうことで終わる類ではない。
一種の禅でいう見性のようなものであって「内在の仏性」と必ず連動する。
宗教的覚醒が起こる。
私自身にもこれがそうだというハッキリとした体験はない。
まあ、私自身、回心を伴わぬ以上はまるでないのと同じだね。
そう言う大変なことが本当に「仏にまみえる」ということだと思う。
仏にまみえれば人は必ず変わる。
例えば法然上人が善道大師にあったように。
強い宗教的メッセージなしに仏など現れない。
「さっきノコノコと観音様が歩いているのを見た」などと言うのは仏の示現とはいわない。
比叡山の回峰行者の間で言う「不動明王を見たか?」の真意もたぶんそういうこと(回心)だと思います。
昔の話だがある霊能者が「私なんかお不動さんも阿弥陀さんも四六時中見ている。あんな大変な修行してやっとみられるなんてはかわいそうね。」と言った人がいる。
この人がみているのは、せいぜい人の「仏」という想念の具象化したものだ。
そうでなければ、幻覚のたぐいだ。
それも何かの役に立つのならそれで結構だが、まことの仏との区別を知らぬのは愚かなことだと思います。
悪いけど常日頃から「お不動さまが見える、阿弥陀さんがみえる」などという方の話を介錯なしでそのまま受け入れることはできない。