長年の精神疾患で自傷行為もするご家族に対するご祈祷依頼。
ご本人は神仏否定派だと明言する。
「どうですか?」ときかれた。
なにも聞かれず、ただ拝んでほしいと言われれば別だがそういう事情の上質問されたらこたえないほうがない。
「どうですか?」と聞かれれば、体験的に考えてまず一回祈ったくらいでは全然よくならないだろう。
これが正直なところ。
はっきり言って一般祈祷のレベルというのは講中の祈祷と比較したら最も簡単なものです。(とはいえその範囲であれこれ思索を練り最も威力のある方法を厳選しています)
ありていに言えば志納料もかからず、かつよく効くというご祈祷を選んでいる。
しかしながら体質的な霊問題をやらないのも同じ理由だ。
効果がない祈祷はしたくない。
だが一般祈祷のレベルでは難しい問題は正直ある。
医術でいえば対処療法というところ しかもこの場合、当の本人は信仰否定派だ。
祈祷は薬と違って飲めば治るというものではない。
また本人が望んでいない祈祷はしない。
ましてや私は一般祈祷では本格的な個別の護摩や個人のための密教の一尊法はしないことにしている。
祈願する人にもしていただくことはしていただく。黙ってお任せあれなどない。
そういうレベルの問題は一種の宿痾、長年の因縁と一つになった病だから、そう簡単には解けないのです。
だからそのために講員という制度で仏道を学んで業障を浄めていただくという道が用意されているのですが・・・
「そこは興味ないんで」といわれればそれまで、
逆に講員になれば治るというもんでもない。何の保証もない。ゼロだ。
正直な話、ここも大事なところ。
だからそういう時に講員に是非なってほしいとか、なりなさいというおすすめも一切しない。
場合によっては入講をお断りもする。
今回も「一回ばかり祈っても治る見込みはないから、気長に医療機関に任せるのが一番です。ご祈祷は無用です。」としかいわない。
期待はずれで申し訳ないがわたしなんかはそんな程度のものだ。