金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

不思議でならないこと

色々重要な御祈願も頼まれますが、重い祈願 程おことわりしている。

なぜなら、難しい祈願ならものによっては継続的にに祈っていく必要もあれば、それ以上に信仰の上で全部託する気持ちがないと効果的ではないからです。

信仰とはそういうものです。

そういう人のために講員制度があるのです。

でもそこは関心はないという。

悪いけどちょっと一度こちらに祈らせてみて…なんて人はこちらから願い下げです。

頼む側がそんなようでは祈る側にも気合などはいりません。

別に気持ちの無い人に講員になってほしいとは全く思わないのですが・・・・。

ただ不思議です。

極端な話が命に係わる祈祷も頼んで来るけど受戒受けて信者になってまでは・・・という。じゃあ一体どういう気持ちで頼んでくるのかが私的には不思議でなりません。

 

ただ、わざわざ相談をしても、祈る側の気持ちが入らない御祈願はするだけ無駄だと思っています。だから相談はしますが祈願までするとは限らない。

そこまででない祈願一般はもうすべて月々の行事の内でお願いします。

そのために色々用意されてますのでそれで充分です。

そちらも一生懸命祈っております。

 

以前講ができた時、長年の御祈願をしていた社長が「自分はそういうの嫌なんです。だから入らないけど・・・いままで通りということでどうかよろしくお願いしたい。」という方がいました。

「いいですよ、。はいらなくて。全然かまいません。

でも、私には自分で決めたことを自分で覆す理由がないですから、あなたはおやめいただくということで結構です。」と申しました。

「いやいや・・・ちょっと待ってくださいよ。」といわれたけど、待つも待たないもない。

嫌だというものをやってもらう方が嫌だ。

万事そういう風です。

その方にはその方それぞれの考えがある。それは尊重したい。だが妥協もしない。

それがフェアだと思う。

その人の在り方はあくまでその人のものだ。

神のものでも仏のものでもない。

良くないとも間違いとも一切言わないし、思いもしない。

宮本武蔵先生の言葉に「いずれの道においても別れを悲しまず」というのがあります。

私はその言葉を大事にしています。