よく長年お不動様を信仰してきたけど、病気になったら薬師如来を祈るべきか?
観音様の信仰をしているが商売は弁天様に祈るべきか?と迷う人がいます。
私たち行者には諸仏の誓願によっていろいろな真言を加えたりすることはあります。
不動様の御祈願のなかで薬師を祈ることもあるし、観音様の御祈祷で弁天様の真言を加えることもできます。
しかし一般には縁あってであった御仏が曼荼羅世界の窓口です。
映画の件を買うのにはどこのプレイガイドでも同じでしょう。
ホトケの世界は曼荼羅世界です。
そこに入る窓口は多くても中は同じ世界です。
ですから縁を感じることがあればそれはどなたに祈願してもいいのですが、同じ祈願を方々でするのは時にかえって祈願成就の障碍になります。
そもそも何故あちこちで祈願するのか?
とりわけ、災難に合うと人はそうなります。
日頃拝んでいるのに災いがあるのは今信仰している神仏ではだめと思うのでしょうね。
そういうときの信仰ですのに愚かなことです。
つまり、一か所では不安だからです。つまり信仰がぐらぐらしている。
こういう時にドタバタするのはその信仰が本物だったのかが問われることです。
ホンモノでない信仰はいざというとき何の役にも立ちません。
そして迷いだしたらもう手負いの熊みたいなもので方々必死でさ迷い歩きますが落ち着くことはありません。
どこへ参ろうとも罰など当たりませんが、こちらの心が乱れ分散するのであちらの神様こっちの仏さまと同じ祈願をします。
これは裏を返せば信仰が確立していないことの証でもあります。
こんな状況でご利益はおぼつきません。
そして、まずそのような状況で方々祈って回って大きな御利益いただいたという話は寡聞にして知りません。
切羽詰まるとそうなり勝ちですが・・・そういう状況の人の祈祷はうちではお断りしています。
理由はよそに行くのが不愉快だからではない。信仰のあり方が不適切でこちらがいくら祈っても感応しないので無駄だからです。
でもよそへも祈願に行くというのは一切止めません。問題はよそへ行くことではなく、心が乱れていることですから。
行くなと言えば余計心配で乱れるのでそのようなことを言っても意味など何もありません。
「かまいません。どうぞ」あるいは「ああ、うちでなくではそちらで祈願してもらうのがいいでしょう。」といいます。
なお、四国遍路や西国参りの様に全体で一つの霊場グループのものですからたくさんのお寺に祈願しお参りしても話は別です。
方々にお参りしたいなら巡礼がいいでしょう。
どこであれお参りすることはいいのですが、「どうぞお力添えください」というべきであります。
信仰の柱を失う状況。
浮足立っていつもどこかよりいいところはないかと始終迷っている状況。
どなたに何を頼んでいるのかもあやふやな状況なのは到底ご利益につながりません。
丁度、織田信長に攻められた足利将軍のようなもので、浅井、朝倉、本願寺、武田とほうぼうに「そなたこそをあてにしているから助けに来てほしい」と手紙を乱発しましたが、結局、さいごまで援軍なく都から出されました。