近代・比叡山伝説の高僧にして大行者 叡南祖賢和尚はお弟子さんが弟子を連れて挨拶に来ると「弟子を持つがいいが最後まで育てられるのか?」と聞いたという。
祖賢和尚は弟子を大事に考えて、信者より弟子と考えたとききます。
弟子は法の器を継ぐ人だからだ。仏様の預かり者です。
とてもとても厳しい人だったが、そこは決してぶれない人だったらしい。
だから和尚のお弟子は優秀な方が綺羅星のごとくいた。
後に比叡山のかなめとなった素晴らしい方々が多い。
だが祖賢和尚と正反対に世のなかには重宝な信者ばかり可愛がって弟子より上に置いてしまう寺もある。
信者寺には時々そういうインベーダーが飛来する。
そう言う人は概して有能。いきなりやってきてあっという間に住職の側近のようになる。
概して利口で器用でとてもよく気が付く人である。
何より良く寺に来ててきぱきとやる。
願ったり叶ったりの人だ。
寺側もいい人が来たと最初は喜ぶ。
それで、やがて寺務のあれこれまで手伝いだして・・・しまいに住職の身の回りまで仕切るまでになる。
実際、気の利かぬアホな弟子などよりよほど優秀な人が多いのも事実だ。
弟子にまでこうせよああせよと指図する。
これが終いにたのまれもしないのに弟子も乗り越えて、ナンバー2となって君臨し寺を実効支配したりする。
断っておくが。本人が全然悪気がなくてもそういう流れになってしまうことだってある。100パーセント善意の人でも遠慮がない人だとそうなる。
和尚もほぼその人に言うに任せる。
だが、そうなったら弟子も信者も離れる。
寺がどう変わろうが、以前からの寺のほうが居心地がよかった人は当然そうなる。
住職がかなりの人物でもそうなることもある。
だから、ここで当のインベーダーがどうであれ、なにより一番大事なのは住職のありようだ。
そう言うインベーダーはいくらでもいる。どう対応するかは住職の問題一つだ。
だれのせいでもない。突き詰めればインベーダーのせいでもない。
住職がしっかりしていれば防げるし、人によってはインベーダーも悪者にならないですみ、おとなしい地球の住人になれるのに。
そう言うのを過去いくつも見てきている。
だから、うちのような零細寺院でも過去そういう人が現れても決して珍重はしてこなかった。
「私のアドバイスを先生が素直に聞けば寺がみちがえるように栄えるんですよ。だから私の言うように動いてください。」と豪語した人もいた。
だが馬耳東風で何をしようと特別に大事にしないし、意見にも耳かさないので腹立てて、しまいに「こんなにしているのに!なんで?」と辞めた人もいる。
私は偏屈で人の言うことを鵜吞みに聞くくらいなら、寺が栄えなくてもいいという人間だからだ。
こちらからわからないからと頼むことでない限り、自分の頭で考えてやらないことには意味ないと考えている。
その人も業を煮やして去っていった。
何年かして案の定、増上慢から無一文になり尾羽打ち枯らして当院の信徒に戻りたいと言ったが、インベーダーがせっかく出て行ったのに誰が引き入れるものか。
ほかにも、かなり必死について回ったり、あるいは秘書のようになってお世話したいという熱心な人もいたが「あんたなんかに務まらない」と言ってへこました人もいる。
誰をどう遇するかは、どこまでも私が決めることだ。
「絶対に住職にうんと言わせてみせる」と言っても。実際わたしにうんと言わせた人は誰もいない。
こういう人は定期的に長いスタンスで出現するようだ。
特に晩年になるとめんどくさくなってそういう便利な人ばかり重用して寺を傾けてしまう。
自分のありようを貫き耳を傾けなければそれで問題はないのだ。
それで気に入らねばいずこへでも去るがいい。
注意すべきことだと思う。