密教行を始めると、程度の差こそあれ自我意識である末那識を掘り下げるので。いろいろな過去の経験が思い出されたり、思い出さなくても感情の嵐になったりする。
そのために飯縄山の道場に籠り一洛叉つまり十万遍の真言行をしてもらうのだが、これはたやすくできるように、たとえば一日1000遍で百日というように分散してやっていたのでは意味がない。
正味七日間でお堂に籠り10万回の慈救の呪は自己を追い込むからだ。
それでついに末那識が揺り動かされる。
末那識は大きな作用は自己防衛の意識。
多くは怒りがふつふつ沸く。悲しくなって涙が流れる人もある。
怒りの奥にはおおきな悲しみが存在するからだ。
これに比べれば准胝独部法は日数をかけるが緩やかな法であり、それゆえ潜在意識の開く夢の世界で色々起こるが、現実世界で暴風雨みたいにはなりにくい。
そこは准胝独部法の大きな利点だ。
在家の方はこの法で必要十分だ。
慈救の呪、十万遍終わったその後もしばらく怒りの噴出がやまず、人を罵倒して去る羽目になった人もいる。
そういう人は法器でないとことを証明していることになる。
密教行法に進むならやはり不動尊の一洛叉はやっておけねばならないと思う。
これをしていない人には加行は進ませられないと感じる。
家でやったのではダメだ。
籠る理由の一つは俗事を遠ざける以外にも感情の嵐から自分自身を守り、周囲の人を守るためだ。
密教は末那識を通過してその奥の阿頼耶識にいかねばいけない。
より高度な行法で同じことが起きたりもする。
山修行でも起きる。聖天浴油の加行でも起きる。
密教の行はいくつかの関所がある。
進めば進むにに随い難しい関所となる。
そこはきわめて危険な領域だ。
そこに至れば誰でもそうなるが無事通過できるとは言えない。
加行とか前行は多かれ少なかれ同じ構造を持っている。ここをいい加減にして法の成就はない。
そこが人の器を選ぶ理由だが、それでもその時その現場にならないとどうなるか、わからないことのほうがズット多い。
以前、一洛叉のことを書いたら「行者にはなるつもりはないけど、一度体験したいので…」という申し込みもあったがそんな人を相手にしているほど暇ではない。
あしかけ八日間、寺を開けて修行に随行し監督しなければいけないからだ。
するもさせるも軽くできることじゃないし、だれでもがすべきことでもないと思う。